はじまりの教室
地面の冷たさで、レイは目を覚ました。
指先がじんじんとしびれている。原因は、床の木の板だった。冬のように冷たく、湿っていた。
ゆっくりと上体を起こす。
そこは、教室だった。
だが、普通ではない。
黒板はチョークの落書きでびっしりと埋め尽くされている。
周囲には、五人の少年少女がいた。彼らの表情はどこか他人事のようで、けれどレイをじっと見ている。
レイは気づく。
両手首と足首に、おもちゃの手錠がかけられていた。がちゃり、と動かしてみるが、意外に外れない。
「ねえ、レイくん。逃げちゃダメだよ。ここにいて」
栗毛の髪を、耳の下あたりで二つに結んだ少女が、笑いながら言った。
言葉の端に、どこか寂しさのようなものが混ざっていた。
その後ろに、小柄な少年がいた。
細い眼鏡の奥で、無表情に黒板を横にスライドさせる。
キィ……と音を立てて動いた板の裏には、鏡があった。
レイは、その鏡に目をやった。
そこに――自分の姿が映っていた。頭が、ちゃんとある。
***
チャイムの音が、遠くで鳴っていた。
白い靄が立ちこめる坂道を、レイ、シン、ノノの三人が歩いていた。全員、同じ制服。胸元には新品の学生証が揺れている。それはありふれた転入の光景のはずだったが――どこか、皮膚の下がむず痒くなるような空気が漂っていた。
「なんか、変な空気だな……」
シンがぼそりと呟く。ノノも無言で頷いた。
正門をくぐった瞬間、空気の密度が変わった。
ざわり、と。肌の内側をなにかが這い回るような感覚。世界が一段階、無音に沈む。
三人は校舎へと入り、指定された教室の前に立った。扉には、うっすらとチョークの手跡が残っている。
キィ……
ドアを開けた、その瞬間。
教室中の生徒が、一斉に顔をこちらに向けた。
誰も声を発さない。誰も瞬きをしない。けれど、全員の顔が――全く同じように、笑っていた。
「……みなさん、今日から一緒に学ぶ新しい仲間です」
担任の教師らしき男が言った。笑顔が、顔に貼りついたようだった。
「座って、くださいね。あらかじめ、席は決めてありますから」
三人の席は、教室の一番後ろ――それも、どれも妙に“使い古された”形跡があった。
机の脚は擦り切れ、椅子の背には誰かの爪跡のような傷。
そのとき、教室の前方の掲示板が目に入った。
そこには手書きの校則が貼られていた。
・廊下は一方通行です。振り返らないこと。
・教室では時計を見ないこと。
・自分の名前を呼ばれても返事をしてはいけません。
・下駄箱は左足からいれること。
異様な掟に、三人は眉をひそめた。
「……なんだ、これ」
シンが低く呟く。だがその声にも、誰も反応を示さない。生徒たちはすでに視線を外し、まるで合図でもあったかのように一斉にノートを開いていた。
だがそのノートには――何も、書かれていなかった。
無地の白紙。文字の一片さえない。
「…あと、レイ君は、放課後に図書室に来てください」
教師は変わらぬ笑顔でそう言った。
***
チャイムが再び鳴ったころ、レイは先ほどの教師の言葉を思い出した。
何も書かれていないノート。意味をなさない黒板の文字。
不審に思いながらも、席を立つ。
「…大丈夫か」
隣のシンが、低く声をかけてくる。レイは黙って立ち上がった。
「図書室の場所、わかんないでしょ?案内するよ」
そう言って声をかけてきたのは、きれいな顔立ちをした人物だった。長い睫毛、やわらかく笑う目元。男とも女ともつかない印象。
胸の名札には――《ナオ》と書かれていた。
「ナ…」
レイがその名を呼びかけた瞬間、ナオはすっと指を唇に当てた。
静かに、首を横に振る。
レイははっとして掲示板を思い出す。
――「自分の名前を呼ばれても返事をしてはいけません」
「……ありがとう。案内、お願いしてもいいか」
レイが言うと、ナオはにこりと笑って頷いた。
レイが立ち上がるのに合わせて、シンとノノも立ち上がろうとした、そのときだった。
「こんな田舎の学校に転校だなんて、めずらしいですね」
「ね! うれしい!」
声の主は、『タクミ』と書かれた長身の少年と、『ユイ』と書かれた栗毛の少女だった。
二人は、まるで“出番”を待っていたかのように、三人の前に立ちはだかった。
「……行こうか」
ナオが静かに言った。
その声には、どこか、拒絶できない重みがあった。




