小さな大人
静まり返る部屋の中。
机の上に、ことり、と黒い指輪が置かれた。
冷めたコーヒーが、より一層部屋の温度を下げたかのように感じた。
クロガネは悲しそうに眉を顰める。
「家のことが嫌になったか?それとも、子育てがしんどかったか?……ほかに好きな男でも、できたか」
静かな空気に耐えきれず、言葉を紡ぐ。どれも見当違いだと、自分でも分かっていた。
「……最後まで、そんなことしか言えないのね」
シノの声がひどく遠くに感じられた。
最初から、無理だったのかもしれない。
自分を守ることしかできないのに、人並みに愛したり、誰かを大事にしたり、守ったりなんて。
「私たちが、一緒にやっていこうだなんて……最初から、無理だったのよ」
その言葉を聞いた瞬間、現実が喉に詰まる。
ずっと見ないようにしていた言葉が、形を持って突きつけられた。
シノはじっとクロガネを見ていた。あのときの、光を失った目で。
***
夜の空気は、夏だというのにやけに冷たかった。
病院を出たクロガネは、ポケットの奥に握った煙草に火を点けることもできず、ただ立ち尽くしていた。
静かすぎる夜だった。横ではシノが泣いている。声にはならない、喉の奥で震えるような泣き方だった。
「……また、作ればいい。今回は、運が悪かっただけだ」
考えた末の言葉が、それだった。
「…また…?…運が悪かった…?」
シノの表情から、音もなく光が消えていった。
時間が経つほどに、その言葉の重さが体に沈んでいく。
――出来損ないが
幼いころの教師に言われた言葉が、ふと蘇る。
その声が、今もどこかで自分の中に残ってる気がしてならなかった。
ほんの少し、手が震える。
もしかしたら、全部、自分のせいなのかもしれない、と。
***
数年後、シノとの間にアカリが生まれた。
やっと得た二人の子どもだった。可愛がらずにはいられなかった。
「…喘息ですね」
医者は静かに言った。アカリはよく体調を崩す子だった。アレルギーもあって、気をつけなければならないことばかりだった。
ある日、町へ出かけた帰り。
アカリが指さしたのは、カラフルな銀紙に包まれたチョコレートだった。
「ダメだよ、ってママ言ってたろ。チョコは……」
そう言いかけたとき、アカリの大きな目が、潤んだようにこちらを見上げた。
再びリフレクションする幼いころの教師の言葉。黒い考えが浮かぶ。
細い腕、色の薄い唇。
――こんなに細くて弱い子にしたのは、自分のせいかもしれない
「……一口だけだぞ。内緒な」
そう言って、チョコを半分に割って手渡す。
アカリは顔を輝かせて、ゆっくり口に入れた。
その夜、時計の針が12を回ったころ。
寝室に、かすれた息の音が響いた。
「……アカリ?」
暗がりの中、アカリは胸を押さえながら小刻みに咳き込んでいた。
肩で息をし、目は潤んで、苦しそうに口を開く。
「くる、しい……」
クロガネは一瞬、身体が固まった。
シノが飛び起き、薬と吸入器をあわてて準備する。
「まさか……チョコ、食べさせた?」
クロガネは答えられなかった。
アカリが少しずつ落ち着いていく横で、クロガネは静かに膝をついた。
「…私、言ったよね」
シノの言葉は、ナイフのように、でも、どこまでも静かだった。
***
黒い星鉄が一筋の光を放つ中、カジはあの時のシノと同じ目でいった。
「…俺たちはさ、小さいころから呪いにかかってんだよ」
かすれた声だった。かろうじて届くような小さな声。
「他人につけられた価値なんて気にするなって、って言うけどよ。一度つけられた価値ってのはなかなか消えねぇんだ」
クロガネは黙って、カジの言葉を聞いた。
「お前の言葉がよ、子供のころに言われたこと思い出させんだよ」
ダメだと、出来損ないだといわれ続けた小さいころの記憶。その毒や呪いは、ずっと大人になっても根強く残っていた。
そして、大人になるとその毒はすべて自分の毒にかわっていく。
「……お前の顔見ると、どうにもダメなんだ。小さい頃のお前を、忘れてしまう」
カジの言葉にクロガネは目を伏せていった。
「…隣町に、知り合いの鍛冶場があるんだ。そっちに行かないか。それで気が変わったら、また……俺に会いに来てくれ」
星鉄に宿っていた光が、ふと、翳り、消えた。
残されたのは、小さな毒に蝕まれたままの、二人の男だった。




