星鉄の指輪
湿った布団のにおい。重たい空気。
カジは布団を頭までかぶって、まるでこの世界から姿を消そうとしているかのように、微動だにしなかった。
かすかな呼吸の音だけが、静かな部屋に残されている。カーテンは閉じたまま、昼の光を遮っている。
「……まだ、朝になってねえよ」
かすれた声が、布団の奥から漏れた。
「朝は、とっくに来てる」
クロガネは玄関に立ったまま言った。
言いたいことは山ほどあるのに、喉の奥に詰まって出てこない。
沈黙が、空気のように重く垂れ込める中で、やっと一つひとつ言葉をつむぐように口を開いた。
「……もう、俺の顔なんか見たくもねぇかもしれねえけど」
手に持った、黒くて鈍い石――星鉄のかけらが、カーテンの隙間からこぼれた光を受けて、微かに輝いた。
その輝きが、カジのまぶたの裏に記憶を差し込む。
***
静かな洞窟に、小さなシノの歌声が、しんとした湿気をまとって響いていた。
その歌声の切れ間に、シノは静かに言葉を紡ぎ始める。
「……私のおじいちゃん、探掘家だったの」
放課後。
クロガネ、カジ、シノの三人は、よく人目のつかない洞窟に集まっていた。秘密基地のようなその場所は、三人だけの、誰にも見つからない王国だった。
「世間にはあまり認められてなかったけど、星鉄を掘り当てたあとで、一気に名が知られるようになったんだって」
「せいてつ……?」
クロガネが首をかしげると、シノはうなずいて続けた。
「それをおばあちゃんに贈ったんだって。結婚指輪にしてね。……なんか、おしゃれでしょ」
静かに本をめくるシノの頬には、大きなガーゼが貼られていた。袖の隙間からは、青あざがいくつも見え隠れしている。
祖父母の話を語るときのシノは、遠いおとぎ話を語るような口ぶりだった。
その横顔には、いつも少しだけ、寂しさがあった。
「それって……この洞窟で見つけたの?」
カジの問いに、シノは静かにうなずく。
「お前のじいちゃん、すげぇなあ」
あたりに転がる黒い鉱石のかけらを眺めながら、クロガネが感心したように言った。
「そうなの、すごい人なのよ、おじいちゃん」
身を乗り出すように、シノが笑顔を見せる。自然と顔が近づいて、クロガネは顔を赤らめて目を逸らした。
その様子を、少し離れた場所でカジが静かに見ていた。
「……そろそろ帰ろう。日が暮れる」
ふと気づけば、洞窟の外は赤く染まりはじめていた。
このあたりには、夜になると魔物が出る。日が暮れる前に帰るのが、子どもたちの決まりだった。
「……うん、そうだね」
シノは少しだけ、寂しげな笑顔を見せた。
あの痛々しいあざが、誰の仕業か――クロガネもカジも、よく知っていた。
三人は帰路につき、やがて分かれ道に差し掛かる。
カジと別れ、クロガネとシノの二人きりになる。
歩みが止まり、それぞれの家への道が分かれようとしたとき、クロガネが不意に言った。
「……なあ、シノ」
振り返るシノと、遠くからカジもその声に気づいて立ち止まった。
「俺、星鉄を見つける。ぜってぇに見つけてやる」
クロガネの拳が震えていた。
「そんで……指輪にして、お前にやる!」
恥ずかしさに声が裏返りそうになって、クロガネは唇をかんだ。
その声は、洞窟よりも深く静かな夕暮れに、まっすぐに響いていった。
***
いつからだろう。
祖父母のことをよく思い出すようになった。
起きている現実を、少しでも忘れたくて。
たとえば、母が布団から出てこなくなったこと。
たとえば、新しい「お父さん」が来ること。
たとえば、夜になると、母が私を殴ること。
どこに行ってもいじめられた。学校でも、家でも。
「お前はダメなやつだ」「気持ち悪い」
そんなふうに貼られたラベルは、そう簡単に剥がれるものじゃなかった。
でも、たった一人だけ。私をお姫様のように扱ってくれた人がいた。
彼は、お花を扱うみたいに優しかった。
一緒にいるとき、私はそっと祖父の日記を置いた。
あえて、約束の歌を口ずさんでみたりもした。
あのときの約束を、彼が思い出すように。
「……約束どおり、持ってきた」
彼が笑って差し出した手には、無骨な形の黒い指輪が握られていた。
「……私たち、まだ子どもだから結婚できないよ」
私はそう言って、笑いながらその指輪を受け取った。




