鍋の中のスープ
扉をたたく音にカジは答えることはなかった。しかし、少しの物音を感じた。
家の窓の閉められたカーテンの間から、ほんの少しカジの目が光った。
そして、カーテンは閉められたまま、ほんの少しだけ窓が空いたのにニアは気づいた。
アカリと顔を見合わせ、窓の近くによる。
「…ごめんね、今、入れる状態じゃ、ないんだ」
開けられることのないカーテンごしに、カジの声が聞こえた。そして、少し漂う腐った匂い。
「…夢で、みたんだ。カジさんとクロガネさんも星鉄、探したんでしょ」
カジは少しだけ目を上げるのがカーテンの隙間から見える。
「…歌が、また聞こえた気がしてさ」
カジはニアに答えようと言葉を紡ぐ。主語もない言葉に何とかニアは話しをくみ取る。
きっと夢で見た、星鉄を探すための要素。朝日と子守唄。
「でも……メロディーが、思い出せないんだよな。どんな曲だったっけ……」
少し沈黙が流れる。
そのとき、アカリがぽつりと口を開く。
「……私、知ってるよ」
二人の視線が彼女に向く。
「母ちゃんが、よく歌うから。いっつも、小さな声で……料理しながら、掃除しながら……」
歌は、なくなったんじゃなかった。別の場所で、ちゃんと生きていた。
***
暗い夜道の中、ニアが宿屋に戻ると、アサヒはすでに部屋にいた。
灯りは落ちていたが、アサヒは起きていたようで、ベッドの上でぼんやり天井を見ていた。
「クロガネさん、どうだった?」
アサヒは少し迷ってから、答えた。
「……ちょっと、いつもよりは落ち込んでたよ」
「そっか……カジさんも」
会話がそこで途切れそうになったところで、アサヒが続ける。
「明日も、夢で探索するの?」
ニアは、窓の外を一度見てから、小さく笑った。
「ううん。明日は、歌の練習する」
「……え?」
アサヒの不思議そうな顔が暗い部屋に残った。
***
「光と音に反応して、星鉄は光るんだね」
アサヒが呟くように言うと、ニアは頷いた。
「そう。ここの村の民謡らしいけど……もう、ほとんどの人が歌えないみたいで」
その言葉に、アサヒの顔がすっと陰る。まるで、何か大切なものが置き去りにされてしまったような、そんな表情だった。
「でも、歌える人がいたんだ。……クロガネさんの娘さん、アカリちゃんが」
その名を出すと、アサヒは少しだけ目を見開いた。
「お母さんがよく歌ってたんだって。台所で、小さな声で…」
静かな間が流れる。アサヒは何かを思い出すように遠くを見つめた。
「……でも、一つ、問題があるんだ」
ニアが声を低くして続ける。
「朝日を待つには、夜に、あの滝の裏へ行かなきゃならない。……魔物が出る、あの場所に」
アサヒの顔色が変わった。無言のまま、黙ってうなずく。
「アカリは連れて行けない。危険すぎるから」
「それじゃ……」と、アサヒが言いかけたところで、
「だから、僕が覚えるよ」
ニアの声が静かに部屋を満たした。
その瞳はまっすぐアサヒに向けられている。まるで「どうせ行くんでしょ」と言いたげに。
***
その夜、街の外れの家で、女は薪ストーブの火を見つめながら、静かにため息をついていた。
鍋の中では豆のスープが、ことことと静かに湯気を立てている。
「……もう、こんな時間」
そう呟きながらも、心のどこかでわかっていた。アカリがどこへ行ったのか、何を気にしているのか。
(あの子は、放っておけないのよね。あの人に、似て)
立ち上がって扉の前に歩き、静かな夜の道を何度目かのぞく。
この村の夜はあまりに静かで、あまりに暗い。それは昔から変わらない。だからこそ、不安がよぎる。
と、草を踏むかすかな音。
「……ただいま」
小さな声とともに、アカリが戻ってきた。
「もう。遅くなるなら出るときに言っていきなさいって、何度言ったらわかるの」
声はとがっていたが、その奥ににじむのは怒りではなく、心配と安堵。
「ごめんなさい……カジが心配で」
アカリのうつむいた頭に、そっと手を置く。
「……そう。あなた、ほんとにカジが好きね」
くすっと笑ってから、ふと真顔に戻る。
「でもね、目上の人には“さん”をつけるの」
「……はい」
小さくうなずくアカリに、シノは少しだけ視線を外した。
かつての夫とのやりとりが、ふとよみがえる。
クロガネのことは今もよく知っている。彼の優しさも、劣等感も。
すべてを理解した上で、それでも当時は、あの人の傍にいるには自分が壊れてしまいそうだった。
けれど今は、こうして娘と共に、静かに暮らしている。 あの頃より少しだけ、まっすぐな心で。
「母ちゃんは、まだ、父ちゃんのこと……許せないの?」
アカリは少し目を伏せて言った。そんなアカリの肩に手を置き、シノは静かに言った。
「母ちゃんはあの人がやさしいことも、わかってる。……そういうところも、好きだったから。でもね、あの人と母ちゃんは、一緒にはいられないの」
アカリは、服の端をきゅっと握りしめる。
「あなたができて、母ちゃんは幸せよ。アカリの父ちゃんは、あの人だけ。母ちゃんも、私だけ。でもね、一緒にはいられないの。あの人とは」
シノはそっとアカリの頬をなでる。
「でも変わらないのは……私たちは二人とも、アカリが世界で一番大切ってこと」
アカリの目を見て、シノは目を細め、言った。
「…ごめんね、アカリ」
その静かな声に、アカリは小さく首を振った。
「さ、ごはんにしよう。あったかいうちに食べなきゃ、豆がしょんぼりしちゃうわ」
笑うシノの声は、どこかふわりとやわらかく、けれど芯のある、母の声だった。




