フィーネの祈り
あたりはすでに、妖精の光と魔力の残響で歪んでいた。
爆ぜた空気、軋む大地。剣がピキリと音が鳴る。アサヒの放つ力は、その細い体にはあまりに過剰で、今にも崩れそうに見えた。
「くそ……!」 石つきをなぎ倒しながら、レイは歯噛みする。アサヒの放つ光の筋は揺らぎ、もはや限界は近い。
そんなとき、世界が反転した。
宇宙の芯に触れたような圧倒的な衝撃――その中から現れたのは、力をまとったアルヴァンだった。
アルヴァンはそっと、アサヒの剣を持つ手に自らの手を重ねる。光の糸がひと筋、二筋とアサヒの背中を這い、剣の根元で渦を巻いた。
「もう、御伽噺は終わりにしよう」
アルヴァンの中にいた何かが、フィーネの声と重なって流れ込んでくる。驚くほど強大な力をまとう彼の顔は、どこまでも痛ましかった。その痛みは、王になるということの代償だとアサヒは察した。
アサヒはそんなアルヴァンに何も返さず見つめた。ゆっくりと二人は力をこめていく。
アルヴァンの放つ光が、アサヒに繋がれた“力の回路”を強く照らす。
フィーネの力とアルヴァンの意志が導線となり、アサヒの内に流れ込む。
剣を中心に国全体が光に包まれた。
その遥か向こうで、セレナの石が静かに解けはじめていた。まるで夢から覚めるように。
***
フィーネは、セレナの優しさを知っていた。
自然を慈しみ、全てを包むような、どこか人間離れした優しさ。
そして、その裏にある傲慢さも、知っていた。
大きすぎる望みは叶わないと分かっていて、それでもセレナは祈った。
大きすぎる祈りは、呪いになって自分に返ってくる。
セレナの優しいのぞみに、誰もがやさしく返してくれるわけではない。
セレナの自傷行為のようなその優しい望みを、フィーネはただ見守った。
代わりに、フィーネは世界とか、自然とかではなく、ただセレナのために祈りを捧げた。
優しいセレナが傷つくのは、許せなかった。
痛みもすべて、もっていくから、どうか私ごと――
***
長く響いていた警鐘は、もう鳴っていなかった。
ユルザの城は、静けさを取り戻しつつあった。けれどその静けさは、ほんの少しだけ、ひどく空虚だった。
どこかで見慣れていたはずの風景が、わずかにずれている。執務室の壁に掛かっていた肖像画が一枚、跡形もなく失われていた。
誰のものだったのか――思い出せない。
庭に向かう廊下には、花瓶が並んでいたはずだ。青い花が挿されていた。そんな気がするのに、今は空のまま、いくつもの器が等間隔に並ぶだけだった。
「……祈り、か」
執務室に独り座るアルヴァンは、ぽつりと呟いた。その言葉に、胸のどこかがかすかに疼いた。
けれどそれが何に対する痛みだったのか、もう、思い出せなかった。
***
「すべては、フィーネが望んだことだったのかもしれない」
セレナが礼を言いたいと、アサヒたちは呼び出された。部屋に向かう際にアサヒたちは静かにつぶやいた。
妖精は、礼には礼を、悪意には悪意を返す。優しいセレナを閉じ込めたのは、彼女が傷つかないようにするため。
そして、悪意をもつ人間たちに反乱を起こしたのかもしれない。
扉の前で一度、足を止める。誰からともなく、視線を交わす。ゆっくりと、扉を開けた。
光が差し込む窓辺で、セレナは静かに青い本を閉じた。
表紙には見覚えがある。けれど、そこに書かれていたのは、どこか知らない物語だった。
「助けてくれてありがとう」
セレナはそう言って、ふわりと微笑んだ。その笑顔は穏やかで、どこか遠くを見ているようでもあった。
「お身体は大丈夫ですか?」
キサラギが尋ねると、セレナは小さくうなずいた。
「ええ、大丈夫。少し、眠っていたみたい」
けれどアサヒは、そっと言葉を探すように口を開いた。
「……本当に? フィーネのこととか、フェリクスのこととか……いろいろ大変だったし」
一瞬の沈黙。
風がカーテンを揺らし、逆光の中でセレナの髪がなびいた。彼女はゆっくりとこちらを見つめ、首をかしげる。
「……どなたのことかしら」
彼女の声は、まるで深い湖の底から届くような、遠い響きだった。
庭に咲いていた青い花は、もう散っていた。
だが、図書室の一冊――青い本の間にだけ、誰かの小さな祈りのように、押し花が一輪、そっと挟まれている。
まだ誰も、そのことに気づいていなかった。




