むかしむかしの物語
「しあわせって、なに?」
幼い頃、母が絵本を読んでくれていたときに、アルヴァンはそう尋ねたことがある。
城に溢れる“しあわせな御伽噺”は、当時の彼にはどこか不思議に思えた。
たいていの結末は、
「結婚して幸せに暮らしました」
「平和に暮らしました」
……そんな言葉で締めくくられていた。
問いを投げかけたとき、母はほんの少し眉をひそめてから、やさしく答えた。 「“ずっと一緒にいられること”よ」
その物語が、誰の口から始まったのかは、誰も知らない。
けれど最初はきっと、もっと素朴で、やさしくて、ほんとうに“しあわせ”な物語だったのだと思う。
そして、それはいつしか「しあわせのための手段」に変わっていった。
本質は形式にすり替わり、「これが“しあわせ”なのだ」と繰り返し教え込まれた。繰り返し、繰り返し。何が本当なのか、もう誰にもわからなくなっていた。
幼い二人には大きすぎる図書室には、夢のような物語ばかりが並んでいた。
セレナは青い背表紙の本に、小さな青い花びらを挟む。
「また作ってるのか? 押し花」
「うん、もう飽きちゃったし。ここにある話も、全部」
床に寝転がったセレナの声は、どこか乾いていた。
「……たしかに」
アルヴァンはそう返して、それ以上は言葉を続けなかった。
「ここの本は、とても嘘ばかりだわ」
アルヴァンはそんなセレナの言葉を返さなかった。
「本当のことを、本当のまま伝えられたらいいのに。伝えて、笑って。泣きたいときには泣いて。……それができたら、父上も母上も、かなしくないのに」
セレナがぽつりと俯いたとき。上から、青い花弁がふわりと舞い落ちる。
「そんなところで寝転がるな、行儀が悪いぞ」
いつの間にか花のかごを抱えたアルヴァンが、いたずらっぽく微笑んでいた。 「ひどい、兄様」
頭の上に花びらをのせて、セレナはころころと笑った。
***
社交界のある夜。
城の大広間は、宝石のようなドレスと金糸の装飾で満ちていた。
若い貴族たちの笑い声が跳ね、香水とシャンパンの匂いが空気を飽和させる。 舞踏の輪の中で、微笑みを浮かべたセレナ。
フィーネの光が彼女のまわりに淡く散り、誰もがその妖精を"祝福の証"のように見上げていた。そんな美しい妖精を隣におく、セレナは嫉妬の格好の的であった。 アルヴァンの背後では、祝福の音楽が響き続けていた。
誰もが“王家の物語”を見守っていたが、その視線はアルヴァンを素通りしていく。
(俺には……舞踏も、うわべの会話も、やっぱり向いてないな)
そう思いながら、夜風にあたりたくて、ひとり庭に出た。
ふと視線を上げると、バルコニーに二人の姿が見えた。
セレナとフェリクス。
彼らの周りには、小さな妖精フィーネの光が漂っている。
(あいつら、やっぱり……)
うすうす気づいてはいた。
セレナがフェリクスに向ける眼差し。セレナに何かあるとすぐ報告にくるフェリクス。
取り残されたのは自分だけ。二人だけで完結する御伽噺を、外から眺めているようだった。けれど、アルヴァンは目を細めて、静かに笑った。
(でも、フェリクスなら)
その微笑みは、兄としての寂しさと祝福が混ざった、ほんの少しだけ大人のものだった。
***
「……フィーネ。周りがなんと言おうと、セレナは俺にとってかわいい妹なんだ」
アルヴァンは、何かを諦めるような、でも静かに確かな声で言った。
フィーネは小さく揺れながらアルヴァンの前に降りてきて、そっと頬に触れる。その手は、ひんやりとしていて、とても軽かった。
アルヴァンの手が自然と伸び、フィーネをそっと抱き寄せる。
フィーネは何も言わず、両手を広げて身を委ねる。少し首を右にかたむける。さらりと揺れる銀の髪。その目は、まっすぐにアルヴァンを見つめていた。そして、ゆっくりと目を細め、息を飲むほど美しい顔で微笑む。
まるですべてを受け入れているかのように。
アルヴァンは、小さなその存在を、泣きながら静かに抱きしめた。
「……ごめん、ごめん……ごめんな……」
そして、王子は妖精を口に運んだ。




