赦しの顔、拒絶の刃
王宮の一室から、水音がはじけた。それは、もう日常のひとつになっていた。
「気持ち悪い、気持ちわるい……!!」
ミレナ――アルヴァンとセレナの母は、何度もセレナの顔を水桶に押し付けた。
その目は娘を見ているようで、どこにも焦点を合わせていない。
王はたびたび身内を貶めることで外交の場をやり過ごした。「醜い」「無能だ」――ミレナは宴のたびに侮られ、冷笑の標的にされた。張り付けた笑顔はもう剥がれ落ち、彼女はよく似た娘に怒りをぶつけるようになった。
そして決まって、フェリクスがアルヴァンへ報告をし、扉を蹴破るようにして部屋へ入る。
セレナの目を見るたびに、フェリクスは吐き気をこらえた。
――何度も水に沈められるその姿が、幼いころの自分と重なって見えたからだ。
フェリクスはそれが、どうしようもなく嫌いだった。
「母上も、最近はまるで何かに取り憑かれたようで……。医者に診せているのだが」
そう語るアルヴァンの声音にも、フェリクスは苛立ちを覚えた。
この想像力の足りない坊ちゃんが、誰よりも嫌いだった。
「……ええ、辛抱強く診てもらいましょう。時間はかかりそうですがね」
この国は、フェリクスの嫌悪するもので満ちていた。
そのあと、セレナは決まって天井の隅を眺めていた。まるでその先に何か出口でもあるかのように。
「ねえ、よく考えるの。早くこの身体から出て、あそこに行かなくちゃって」
セレナの笑みは無垢で、まるで神様にでもなったかのようだった。その瞳は、痛みも、罪も、すべてを赦すように澄んでいた――それが、フェリクスには恐ろしかった。
フェリクスの過去を知る者は、この国にいない。
名を変え、顔を変え、今や本来の姿などどこにも残っていなかった。
だが、ときおり鏡の中に現れる――
青く深い痣が刻まれた、かつての“自分の顔”が。
セレナの部屋にいる今でさえ、フェリクスは自分の顔が醜く感じられた。
ドレッサーに映るその顔が、セレナにも見えているような錯覚さえする。
そして必ず、彼は思い出す。
セレナの母によく似た、かつての自分の両親を。
だが、動揺は表に出さない。
ただその胸の奥を通りすぎる、ざわめきを待つだけだった。
「フェリクス、大丈夫よ」
そんな時、決まってセレナは手を握ったり、頭を撫でたりする。
「……それは、こちらの台詞ですよ。セレナ様」
見透かすようなその瞳に、フェリクスは一瞬、希望を見てしまう。
――もしかしたらこの人は、本当の顔の自分も、受け入れてくれるのではないかと。
けれどその無垢な全能感は、逆にフェリクスを深く追いつめていくのだった。
***
フェリクスは灰色の空を仰いだ。
遠い昔のような、夢のような記憶。思い出すのは、自分が最も嫌悪したはずの――あの醜い顔の姫君ばかりだった。
頭を伝う生ぬるい血の感触も、もはやフェリクスには分からなかった。
***
――爆音。鉄と骨がぶつかり合うような、激しい衝突音。
キサラギはアルヴァンの刃を受け止めたまま、身をひねり反撃する。
アルヴァンは防御に徹しながらも、目の奥にまだ迷いを宿していた。
「どうして……なぜ、フェリクスがこんなことを……っ!」
焔羅達から無線で飛んできた報告を聞き、掠れた声で問うアルヴァンにキサラギは笑った。それは怒りとも嘲りともつかない、乾いた笑みだった。
「マジで言ってんのか、お前」
キサラギの瞳が、アルヴァンを真っ直ぐに射抜く。もはや王子だということを忘れ、声を荒げた。
「てめぇらが、ずっと目を逸らしてきたツケだよ――これはな」
鋭く、低く、言い放たれたその言葉に、空気が凍った。
「耳塞いで、目を逸らして、都合よく些細なことだと逃げ込んで――それで“知らなかった”とか、“理解できない”とか、ほざくな」
一歩、キサラギが前へ出る。
アルヴァンは思わず後退し、目を伏せた。
「幸せってのは、傷ついてる何かを見ないように、仕方ないと押し込めることか? その連鎖したお前にとっての“小さい傷”で壊されたやつが、どれだけいたと思ってんだよ」
アルヴァンは唇を噛む。だがキサラギは止まらない。
「お前は、ずっと“知らないままでいたい”だけだったんだよ。なかったことにすれば平和でいられるからな。優しくて、お人好しで、“責任なんて知らないままでいられる”王族でいたかったんだろ」
ぐらり、とアルヴァンの心が揺れるのが見えた。
「――でも、もう無理だ」
キサラギは静かに、刀を構えなおした。
「全部お前の前に落ちてる。これからどの血に手を伸ばすか、どこまで目を背けるか――選べよ、“王子様”」




