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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第五章 フィーネの祈り
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紫水晶の瞳

 紫の刃が、獣のような足音とともに煙の中を駆け抜けた。

 視線は焦点を失い、唇には笑み。けれど、その笑みには喜びも怒りもなかった。


 あるのはただ――「殺す」という本能。


 紫の刀がフェリクスの肩に深く突き刺さる。もう片方の手に持つ刃を振り上げると、フェリクスは顔を苦痛に歪め、一歩、二歩と後ずさった。

 次の一閃が弧を描き、フェリクスの鼻筋をかすめる。鮮やかに吹き出した血で、彼は初めて顔を斬られたことに気づく。

 それは彼にとって“自分の尊厳”そのものだった。激しい怒りが、頭の奥で沸騰する。

「化け物がッ!」

 そう叫びながら振るう刀を、紫は冷ややかな目で見つめ、懐へ飛び込んだ。

 体をひねり、渾身の蹴りを叩きこむ。さらに、剣を握る手首の腱に切り込むと、フェリクスの剣が落ちた。

 そこから先は、音のない暴力だった。

 紫は無言のまま、倒れたフェリクスを何度も、何度も蹴りつける。

 もはや立ち上がることすらできない相手に、それでも容赦のない痛みだけを与え続けた。

 最後に、紫はその喉元に刃を振り上げた。


***

 妖精は言葉を持たない。けれど私は、フィーネの声をずっと聞いていた。


 私が辛いとき、彼女はそっと問いかける――「だいじょうぶ?」

 私が笑えば、まるで自分のことのように微笑み、「たのしいね」とつぶやく。


 その笑顔は、いつも透き通るように美しかった。

 あまりに純粋で――残酷だった。

 母は醜い私を嫌った。水を張った桶に、何度も私の顔を沈めた。

 使用人たちは、その時間が過ぎるのを待った。

 私はいつも空想にふけっていた。

 兄と食べるおやつのこととか、どうしたら愛されるのかとか、この世界はどうなっているのだろうとか。

 いつも最後には、兄とフェリクスの声が聞こえて、私は意識を手放し、目覚めると自室にいた。

 夢だったのかもしれない、と思った。

 私は部屋の片隅から、天井の角を見上げるのが癖になっていた。

 いつかこの身体を抜け出して、その先に、“本当の私”に戻れる気がしたから。

 身体はもう、感覚を失っていた。冷たさも温かさも感じなかった。

 けれど、それは人の痛みを吸い取る私にとっては、むしろ好都合だった。

 医者は言った――「この病は、痛みがなくても地獄のように苦しい」と。

 でも、そんなことはどうでもよかった。

 すべてが夢の中のようで、現実だとは思えなかった。

 そんな非現実のなかで、私は一つだけ、小さな願いを口にした。

「ねえ、フィーネ。私は、言葉が齟齬なく届いて、誰も傷つかなくて、みんなが笑えて、自由に泣ける――そんな世界をつくりたい」

 フィーネは変わらぬ笑顔で、ただひとこと、言った。

「それは、とても大きな願いごとだよ」

 それはずっとわかっていたことだった。

 それでも、私は願わずにはいられなかった。

「傲慢だね」

 だって――そう言って笑うフィーネは、私と同じ顔をしていたから。


***

 カチリと鍵が回る音で、アサヒは目を覚ました。

 視界がまだぼやける。脳裏に、セレナの顔が浮かんだ。長い夢を見ていたような感覚。

 床の冷たさが、だんだんと身体に戻ってくる。

 ――あれは、セレナの記憶だ。強くて、か弱い少女の記憶。

 まだ働かない頭を抱えたまま、アサヒは重い扉を押し開ける。

 その先に、フィーネの小さな背中が見えた。


***

 小さな風の音が、静かに宙を裂いた。

 紫の刀がかすかに震えていた。その刃に伝って滴り落ちるのは、焔羅の血。

 焔羅は背後から紫をそっと抱きしめ、その大きな手で彼女の目を覆った。もう一方の手は、まっすぐに紫の刀を握っていた。

「……紫ちゃんはさ、こんなことしなくていいよ」

 塞がれたむらさきの瞳の背後からは赤い悲しい眼が光っていた。そして、銃口が浮かび上がる。赤い光が一閃、焔羅の背後で淡く滲んだ。

 ――パン。

 乾いた音とともに、フェリクスの頭が赤く弾け飛ぶ。

 焔羅は思い出していた。

 幼いころの自分。ずれ落ちる布の隙間から、赤い目が光る。その傍らには、倒れた暗い赤い髪の少女。そして、白衣の大人たちに囲まれていた。


(――ああ、殺そう)


 そのとき芽生えた、暗く重たい感情もつかの間、一瞬で白い人影が赤に染まった。

 その頂に立っていたのは――紫水晶の瞳を持つ、妹と同じ年頃の少女。

 焔羅は、その瞳にすべてを奪われた。


離人症というものです。

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