紫水晶の瞳
紫の刃が、獣のような足音とともに煙の中を駆け抜けた。
視線は焦点を失い、唇には笑み。けれど、その笑みには喜びも怒りもなかった。
あるのはただ――「殺す」という本能。
紫の刀がフェリクスの肩に深く突き刺さる。もう片方の手に持つ刃を振り上げると、フェリクスは顔を苦痛に歪め、一歩、二歩と後ずさった。
次の一閃が弧を描き、フェリクスの鼻筋をかすめる。鮮やかに吹き出した血で、彼は初めて顔を斬られたことに気づく。
それは彼にとって“自分の尊厳”そのものだった。激しい怒りが、頭の奥で沸騰する。
「化け物がッ!」
そう叫びながら振るう刀を、紫は冷ややかな目で見つめ、懐へ飛び込んだ。
体をひねり、渾身の蹴りを叩きこむ。さらに、剣を握る手首の腱に切り込むと、フェリクスの剣が落ちた。
そこから先は、音のない暴力だった。
紫は無言のまま、倒れたフェリクスを何度も、何度も蹴りつける。
もはや立ち上がることすらできない相手に、それでも容赦のない痛みだけを与え続けた。
最後に、紫はその喉元に刃を振り上げた。
***
妖精は言葉を持たない。けれど私は、フィーネの声をずっと聞いていた。
私が辛いとき、彼女はそっと問いかける――「だいじょうぶ?」
私が笑えば、まるで自分のことのように微笑み、「たのしいね」とつぶやく。
その笑顔は、いつも透き通るように美しかった。
あまりに純粋で――残酷だった。
母は醜い私を嫌った。水を張った桶に、何度も私の顔を沈めた。
使用人たちは、その時間が過ぎるのを待った。
私はいつも空想にふけっていた。
兄と食べるおやつのこととか、どうしたら愛されるのかとか、この世界はどうなっているのだろうとか。
いつも最後には、兄とフェリクスの声が聞こえて、私は意識を手放し、目覚めると自室にいた。
夢だったのかもしれない、と思った。
私は部屋の片隅から、天井の角を見上げるのが癖になっていた。
いつかこの身体を抜け出して、その先に、“本当の私”に戻れる気がしたから。
身体はもう、感覚を失っていた。冷たさも温かさも感じなかった。
けれど、それは人の痛みを吸い取る私にとっては、むしろ好都合だった。
医者は言った――「この病は、痛みがなくても地獄のように苦しい」と。
でも、そんなことはどうでもよかった。
すべてが夢の中のようで、現実だとは思えなかった。
そんな非現実のなかで、私は一つだけ、小さな願いを口にした。
「ねえ、フィーネ。私は、言葉が齟齬なく届いて、誰も傷つかなくて、みんなが笑えて、自由に泣ける――そんな世界をつくりたい」
フィーネは変わらぬ笑顔で、ただひとこと、言った。
「それは、とても大きな願いごとだよ」
それはずっとわかっていたことだった。
それでも、私は願わずにはいられなかった。
「傲慢だね」
だって――そう言って笑うフィーネは、私と同じ顔をしていたから。
***
カチリと鍵が回る音で、アサヒは目を覚ました。
視界がまだぼやける。脳裏に、セレナの顔が浮かんだ。長い夢を見ていたような感覚。
床の冷たさが、だんだんと身体に戻ってくる。
――あれは、セレナの記憶だ。強くて、か弱い少女の記憶。
まだ働かない頭を抱えたまま、アサヒは重い扉を押し開ける。
その先に、フィーネの小さな背中が見えた。
***
小さな風の音が、静かに宙を裂いた。
紫の刀がかすかに震えていた。その刃に伝って滴り落ちるのは、焔羅の血。
焔羅は背後から紫をそっと抱きしめ、その大きな手で彼女の目を覆った。もう一方の手は、まっすぐに紫の刀を握っていた。
「……紫ちゃんはさ、こんなことしなくていいよ」
塞がれたむらさきの瞳の背後からは赤い悲しい眼が光っていた。そして、銃口が浮かび上がる。赤い光が一閃、焔羅の背後で淡く滲んだ。
――パン。
乾いた音とともに、フェリクスの頭が赤く弾け飛ぶ。
焔羅は思い出していた。
幼いころの自分。ずれ落ちる布の隙間から、赤い目が光る。その傍らには、倒れた暗い赤い髪の少女。そして、白衣の大人たちに囲まれていた。
(――ああ、殺そう)
そのとき芽生えた、暗く重たい感情もつかの間、一瞬で白い人影が赤に染まった。
その頂に立っていたのは――紫水晶の瞳を持つ、妹と同じ年頃の少女。
焔羅は、その瞳にすべてを奪われた。
離人症というものです。




