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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第五章 フィーネの祈り
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セレナの祈り

 才能の石と呼ばれるただの塊は、必ずしも祝福されるようなものではなかった。


 絵で人を魅了するもの。

 人をだますのがうまいもの。

 走るのが人一倍早いもの。

 人を癒すことができるもの。

 ――人を殺すのがうまいもの。


 紫のそれは、最後だった。

「お前は、大剣を使うのが苦手だから、大剣でも振ってろ」

 黒髪の女がそう言った。その言葉の裏に、紫は優しさを見ていた。

 けれど今は、もうその顔さえ思い出せない。

 覚えているのは、鉄と肉の匂い、頬をつたう血のぬるみ。折り重なる“人間”の山。その頂で、幼い紫はその女に抱きしめられていた。耳元で、囁くように言われた言葉。


「――お前さ、私の腹から出てこればよかったのにな」


***

 煙の中から跳ねるように現れた紫の刃が、焔羅の目前に迫る。

「くそっ…!」

 焔羅は咄嗟に抜いた刀で受け止めた。弾き返した衝撃で、体ごと後方へ吹き飛ばされる。 金属音が重なり、再び紫が踏み込む。焦点を失った瞳と、微かに浮かんだ笑み――それはもう、紫の意志ではなかった。焔羅は肩で息をしながら、距離を取る。

「…こうなると思ってましたよ」

 軽口のようで、その実、苦い覚悟が滲んでいた。止まらない斬撃を紙一重で弾き続ける。何度も何度も――そのうちのいくつかは、すでに身体を掠めていた。もはや言葉など届かない。まるで命じられた機械。あるいは、過去に取り憑かれた亡霊のように。

 焔羅は知っていた。この目を。出会ったばかりのあの頃の紫の――すべてを諦めたような、無機質な視線を。彼女は、小さな殺人狂だった。だが、焔羅にとっては唯一の「救い」だった。

「今度は、俺が――」

 その言葉を言い終える前に、紫の刃が頬を裂いた。

 血がにじみ、視界が揺らぐ。次の一撃が、容赦なく迫っていた。

 焔羅は地面に身を投げ、転がりながら息を呑む。刀の切っ先が、目の前をかすめ―― だが、その動きが一瞬だけ止まった。

「本当に、化け物みたいだ。……ものすごく、お似合いですよ」

 遠くから、冷たい声が響いた。煙の向こうから現れたのは、白い手袋をした男――フェリクスだった。

 ゆらりと、揺れる紫の身体。

「止まれ、紫――!」

 焔羅の叫びも届かない。紫は、迷いなく刀を振り上げ、フェリクスに向かって突き出した。


***

 煌びやかな舞踏会のホール。セレナは、周囲の視線に耐えながら一人で立っていた。

 ドレスの裾を握りしめ、張りついた笑みの奥に息を潜めながら、彼女はそっと視線を横に逸らす。背筋だけは、折れないように――真っ直ぐに。

 やがて彼女は足音もなくバルコニーに出た。夜の空気はひんやりとしていて、仮面のような笑顔をひととき剥がしてくれる。

「フィーネ、こんなところでまた見てたの?」

 窓辺の陰に身を潜めていた小さな妖精が、気まずそうにくるりと宙を一回転する。フィーネの羽が、月明かりにわずかにきらめいた。

「ほら、あんなかわいい妖精を横につれてるわ」

「だから余計に、あの娘の醜さが目立つのよ」

 ホールの内側から、誰かの毒を含んだ声が漏れてくる。セレナはそっと目を伏せた。フィーネは心配そうにセレナの顔を覗き込む。

 ――ガチャリ。

 バルコニーとホールをつなぐ扉が閉じられる。

「セレナ様、こんなところで飲み物を楽しんでおられるとは、ずるいですね」

 いたずらな笑みを浮かべて現れたのは、フェリクスだった。

「おかわりもお持ちしましたよ」

 彼は差し出した二つのグラスのうち一つをセレナに手渡す。セレナの頬がわずかに染まり、視線を逸らす。

「……あなたのほうこそ、悪い方ね」

 彼女の髪に、フェリクスの指がそっと触れる。その手つきは、愛おしむようにも、別れを惜しむようにも見えた。


***

 冷たい石造りの部屋。塞がれた窓。開かれぬ扉。セレナは膝を抱えて座り、かすかに身体を震わせていた。その傍ら、机の上に置かれたガラス瓶。その中に閉じ込められたフィーネは、力なく揺れている。

「…ねえ、フェリクス。嘘よね」

 セレナのかすかな声。フェリクスはその瞳を、氷のように冷たい眼差しで見返した。

「なにがですか、セレナ様。妖精たちの集まる森に密猟者を招いていたこと?それとも妖精を市に流したこと??ああ、それとも――」

 冷たい表情から、一変し、普段と同じ笑顔を張り付けた。


「――“今夜はずっと一緒にいたい”と、あなたを誘ったことですか?」


 その言葉に、セレナは体中の熱が顔に集まる。一瞬顔を伏せるが、すぐに力強く顔を上げた。

「…私は、あなたを救いたい。今からでも間に合う」

 その目に宿る、まっすぐな光。

 どんなに踏みにじられても消えない優しさが、フェリクスの中に何かを呼び起こす。 


 ――母親の顔。

 ――鏡に映る醜い自分。

 ――美しい妖精を、口に運ぶ化け物のような記憶。


「…こんな顔じゃなければ、そんなこと言わなかったくせに」

 フェリクスの声が震えた。そして、怒りと戸惑いを覆い隠すように、セレナを睨みつける。

「ほんと嫌いだ。その、醜い顔」

 フィーネが小瓶の中で何度も体を打ちつけ、激しく震える。瓶の内側に、かすかなひびが走った。

「…ここの地下牢は、妖精の力を封じる細工が施されている。あなたの力も及ばないはずだ」

 ガラスに体をぶつける音が大きく響く中、フェリクスがセレナの頬を乱暴に掴む。

「あなたの見た目にあったゴミ箱のような能力もね」

 絶望の色が、セレナの瞳に滲んだ――

 ガタン。

 机から滑り落ちた瓶が、地面に叩きつけられる。破片と共に放たれた光が、部屋中に広がった。セレナの頬に触れていたフェリクスの指先が、ざらりとした感触に変わった。

「……あ?」

 彼は一歩後ろに下がった。目の前で、セレナの肌が、髪が、ドレスの繊維までもが、ゆっくりと鉱石のような質感へと変わっていく。頬にはなお、温かい涙の痕があった。

「……石に……?」

 信じられないものを見るように、フェリクスはその場に立ち尽くす。

 砕けた小瓶から、ガラスの崩れる音が鳴る。

 フィーネが、地面に倒れた瓶の破片の中から、にじり出るように這い出てくる。身体のあちこちに傷をつけながら、それでも動きを止めなかった。

「――――――――――――!」

 妖精の声にならない叫びが、部屋中に反響する。

 フェリクスが反射的に腕をかざす。が――その光は、彼には触れなかった。

 フィーネは、セレナの石化した肩にそっと手を置いた。

 ただ祈りを込めて――

 セレナがこれ以上傷つかぬよう、世界からできるだけ遠くに遠ざけたかった。

 そこに残されたのは、ひとり立ち尽くすフェリクスと、崩れ落ちた小さな妖精の姿。石の中に埋まるお姫様だった。


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