正しさの形
──風の音がした。
ざわ、と草が揺れる。光が、柔らかく揺れている。目を開けていたのか、閉じていたのかもわからない。けれど、確かに見えていた。
――花だ。薄紫の、すこし重たげな花が、風に揺れていた。
(ここは……)
思考が追いつかないまま、誰かの背中が視界に浮かぶ。長い髪をひとつに束ねた少女。指先には小さな白い妖精。けれど、妖精の羽は折れていて、少女はそれに口を近づけていた。
「痛いね……」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が締め付けられた。懐かしいのに、知らない。あたたかいのに、冷たい。そんな奇妙な感情が、アサヒの中を流れた。
──記憶だ。これは、セレナの記憶。
少女は、壊れかけた妖精をそっと手のひらに乗せていた。まだ幼さの残るその横顔に、どこか影が差している。けれど、指先の扱いは驚くほどやさしかった。
「だいじょうぶ。わたしが守ってあげるから」
小さく微笑む唇は、どこか大人びて見えた。
アサヒは気づいていた。これは夢でも幻でもなく、セレナの記憶の中だと。身体は動かない。ただ、意識だけがその光景に溶け込んでいく。(……これは、いつの記憶なんだ?)
ふと、視界の端で誰かが立ち止まる。
「また勝手に外へ出て……セレナ様」
少年の声だった。
白い軍服に身を包んだ、あまり年の変わらない少年が、眉をひそめて立っている。
少女――セレナは、すこし笑って言った。
「大丈夫。ここは平気。……ね?」
そう言って、妖精を抱いたまま立ち上がる。その手元から、ふわりと小さな光が立ち上がった。折れたはずの羽が、ゆっくりと再生していく――まるで、少女の祈りに応えるかのように。そして、セレナの手には痛みを吸い取るように、切り傷ができる。
少年はその光景を黙って見つめたまま、ふっと目を伏せた。
「……あなたが、その力を誰にも見せなければ、誰もあなたを傷つけません」
「……でも、それじゃ、守れないでしょう?」
セレナの声は、あまりに静かで――あまりに、真っすぐだった。アサヒの胸の奥が、じんわりと痛む。
視界がまた揺れる。草の香りが濃くなる。光が滲む。
やがて、場面はゆっくりと変わっていく。ひとりきりの石造りの部屋。塞がれた窓。開かれぬ扉。少女はそこでひざを抱え、かすかに震えていた。
「……どうして?」
そうつぶやいた声が、どこかアサヒのものと重なって聞こえた。
***
闇市の最奥、ほの暗い倉庫跡の静けさを破ったのは、靴音だった。乾いた床に響く、規則正しい足音。
(……来たな)
焔羅は物陰に身を潜め、わずかに身を乗り出す。煙のように慎重で、だが獣のような鋭さを持つ気配が、空気に混ざっている。先ほど報告のため城へ戻ったときの、レイの言葉が頭をよぎる。
『こっちでも、少しきな臭いことが起きてる。俺の想像があっていたら、おそらくは――』
焔羅の視線の先。白い人影がゆっくりと歩いてきた。
「随分と、雑な隠れ方をしているものだな」
男の声。
「あらら、ばれてた?」
焔羅は物陰から出て、軽口を叩く。
「ここに君らが出入りしていることくらい、耳には入っている」
白い軍服に金の飾緒。胸元には国章のバッジ。だが、なにより異様だったのは、その目。感情を剥ぎ取ったような冷たい湖の色。底が見えない。
「こんなとこで、何してるの。……フェリクス中尉」
焔羅の言葉に、男は口元を吊り上げて笑った。
「そのまま返すよ。犯罪者が」
フェリクスは焔羅の目元の刺青を示す。
「お前が、妖精の力をばらまいてたんだな」
「“ばらまく”とは語弊があるな。求める人に、渡るべきものが渡っただけだ」
その言葉と同時に、フェリクスの手から、青白く光る液体の小瓶がこぼれる。
その瞬間――天井から影が落ちた。
大剣を振りかざし、紫が地を穿つように落ちてくる。金属音が火花を散らし、フェリクスの剣とぶつかる。
「話し合いが苦手なタイプのようだ。いいだろう……試してみようか。君たちの“正義”ってやつの強さを」
フェリクスが手を放す。小瓶が床に落ち、カチャン、と響いた。次の瞬間、青白い液体が破裂する。空気が歪み、倉庫全体に甘い匂いが満ちた。
「……ッ!」
紫が咄嗟に身を引くも、頬を液体がかすめる。冷たい感触が、じわりと肌に染み込む。
「ああ、運が悪い。少量でも、君のような“素地”のある者には効果的面だ」
フェリクスの目が、まるで芸術を見るように細められる。
背後で呻き声が上がる。周囲に潜んでいた“石付き”たちが次々と暴走し始めた。眼が爛々と光り、理性が剥がれる。
「紫ちゃん!」
焔羅が叫ぶ。だが紫はすでに、自身の中の何かを押しとどめられずにいた。
「……っ……あ……ッ」
揺れる身体、うなじの“むらさきの石”が鈍く光る。
「さあ、見せてくれ。君たちの信じる“正しさ”が、どれほど役に立つのかを」
紫の瞳が、深く、妖しく輝いた。その奥で、なにかが――崩れはじめていた。




