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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第五章 フィーネの祈り
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正しさの形

 ──風の音がした。

 ざわ、と草が揺れる。光が、柔らかく揺れている。目を開けていたのか、閉じていたのかもわからない。けれど、確かに見えていた。

 ――花だ。薄紫の、すこし重たげな花が、風に揺れていた。

(ここは……)

 思考が追いつかないまま、誰かの背中が視界に浮かぶ。長い髪をひとつに束ねた少女。指先には小さな白い妖精。けれど、妖精の羽は折れていて、少女はそれに口を近づけていた。

「痛いね……」

 その声を聞いた瞬間、胸の奥が締め付けられた。懐かしいのに、知らない。あたたかいのに、冷たい。そんな奇妙な感情が、アサヒの中を流れた。

 ──記憶だ。これは、セレナの記憶。

 少女は、壊れかけた妖精をそっと手のひらに乗せていた。まだ幼さの残るその横顔に、どこか影が差している。けれど、指先の扱いは驚くほどやさしかった。

「だいじょうぶ。わたしが守ってあげるから」

 小さく微笑む唇は、どこか大人びて見えた。

 アサヒは気づいていた。これは夢でも幻でもなく、セレナの記憶の中だと。身体は動かない。ただ、意識だけがその光景に溶け込んでいく。(……これは、いつの記憶なんだ?)

 ふと、視界の端で誰かが立ち止まる。

「また勝手に外へ出て……セレナ様」

 少年の声だった。

 白い軍服に身を包んだ、あまり年の変わらない少年が、眉をひそめて立っている。

 少女――セレナは、すこし笑って言った。

「大丈夫。ここは平気。……ね?」

 そう言って、妖精を抱いたまま立ち上がる。その手元から、ふわりと小さな光が立ち上がった。折れたはずの羽が、ゆっくりと再生していく――まるで、少女の祈りに応えるかのように。そして、セレナの手には痛みを吸い取るように、切り傷ができる。

 少年はその光景を黙って見つめたまま、ふっと目を伏せた。

「……あなたが、その力を誰にも見せなければ、誰もあなたを傷つけません」

「……でも、それじゃ、守れないでしょう?」

 セレナの声は、あまりに静かで――あまりに、真っすぐだった。アサヒの胸の奥が、じんわりと痛む。

 視界がまた揺れる。草の香りが濃くなる。光が滲む。

 やがて、場面はゆっくりと変わっていく。ひとりきりの石造りの部屋。塞がれた窓。開かれぬ扉。少女はそこでひざを抱え、かすかに震えていた。

「……どうして?」

 そうつぶやいた声が、どこかアサヒのものと重なって聞こえた。


***

 闇市の最奥、ほの暗い倉庫跡の静けさを破ったのは、靴音だった。乾いた床に響く、規則正しい足音。

(……来たな)

 焔羅は物陰に身を潜め、わずかに身を乗り出す。煙のように慎重で、だが獣のような鋭さを持つ気配が、空気に混ざっている。先ほど報告のため城へ戻ったときの、レイの言葉が頭をよぎる。


『こっちでも、少しきな臭いことが起きてる。俺の想像があっていたら、おそらくは――』


 焔羅の視線の先。白い人影がゆっくりと歩いてきた。

「随分と、雑な隠れ方をしているものだな」

 男の声。

「あらら、ばれてた?」

 焔羅は物陰から出て、軽口を叩く。

「ここに君らが出入りしていることくらい、耳には入っている」

 白い軍服に金の飾緒。胸元には国章のバッジ。だが、なにより異様だったのは、その目。感情を剥ぎ取ったような冷たい湖の色。底が見えない。

「こんなとこで、何してるの。……フェリクス中尉」

 焔羅の言葉に、男は口元を吊り上げて笑った。

「そのまま返すよ。犯罪者が」

 フェリクスは焔羅の目元の刺青を示す。

「お前が、妖精の力をばらまいてたんだな」

「“ばらまく”とは語弊があるな。求める人に、渡るべきものが渡っただけだ」

 その言葉と同時に、フェリクスの手から、青白く光る液体の小瓶がこぼれる。

 その瞬間――天井から影が落ちた。

 大剣を振りかざし、紫が地を穿つように落ちてくる。金属音が火花を散らし、フェリクスの剣とぶつかる。

「話し合いが苦手なタイプのようだ。いいだろう……試してみようか。君たちの“正義”ってやつの強さを」

 フェリクスが手を放す。小瓶が床に落ち、カチャン、と響いた。次の瞬間、青白い液体が破裂する。空気が歪み、倉庫全体に甘い匂いが満ちた。

「……ッ!」

 紫が咄嗟に身を引くも、頬を液体がかすめる。冷たい感触が、じわりと肌に染み込む。

「ああ、運が悪い。少量でも、君のような“素地”のある者には効果的面だ」

 フェリクスの目が、まるで芸術を見るように細められる。

 背後で呻き声が上がる。周囲に潜んでいた“石付き”たちが次々と暴走し始めた。眼が爛々と光り、理性が剥がれる。

「紫ちゃん!」

 焔羅が叫ぶ。だが紫はすでに、自身の中の何かを押しとどめられずにいた。

「……っ……あ……ッ」

 揺れる身体、うなじの“むらさきの石”が鈍く光る。

「さあ、見せてくれ。君たちの信じる“正しさ”が、どれほど役に立つのかを」


 紫の瞳が、深く、妖しく輝いた。その奥で、なにかが――崩れはじめていた。


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