青い本に誘われて
昼を過ぎても、王宮の中庭には静けさが漂っていた。レイは刀を肩にかけ、訓練中の衛兵たちをじっと見つめていた。
珍しく、部隊の編成にまで口を出した焔羅に、しぶしぶキサラギが応じていた。キサラギの「三人のおもりなんかやってらんねえ」と吐き捨て、キサラギはニアを連れて離れ、アサヒは地下の牢へと追いやられた。レイはというと、王族の護衛役として兵士たちに加わるよう命じられていた。
(キサラギ、指示するのが面倒だったんだろうな)
レイが静かにため息をついた時だった。
「今すぐ石化した兵士を戦力化すべきだ。あれは少なからず、妖精の力を持っている」
「それではまるで……死人を盾にして戦うようなものだ!」
静まり返った王宮の一室に、怒号が鋭く響いた。王族派と改革派の兵士たちが、声を荒げて口論していた。レイは、壁際でじっと耳を傾けていた。
「……セレナ様はもう、“人間ではない”のか?」
ふと、誰かがぽつりと漏らした言葉が、場を凍らせた。
「じゃあ、妖精は?喋れなくなったら、もう“物”なのかよ?」
別の若い兵士が声を重ねる。
「…今までこの国は争いごともなく、ずっと続いてきた。だが、その中にも少なからずあったはずだ。誰かが淘汰される場面が。きっと最初は些細なことから始まったなにかが」
その時だった。今まで黙っていた、白い軍服の男が静かに口を開いた。フェリクスだ。
「上の都合で切り捨てられる命がある。体裁を保つために、妻さえ公の場で踏みにじる。誰かよりも美しく、誰かよりも清くあろうとするために他人を貶める」
一言ずつ噛みしめるような声。誰もが息を呑んでその言葉に耳を傾けていた。
「それに気づかぬようにしてきた。見ないようにしてきた。その浅ましさが──この国を蝕んでいるんじゃないか?」
しんとした空気が、さらに重く沈んだ。
「お前は、国を守りたいが、人を傷つけたくないからと、剣を握らないのか?」
その問いに誰もが俯いた。沈黙の中、フェリクスはゆっくりと扉に向かう。
扉の外。レイが壁にもたれて立っていた。彼はなにも言わない。ただ、静かにフェリクスを見つめる。
フェリクスは一瞬、その視線を受け止めると、なにも言わずに背を向け、去っていった。
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地下の牢は、外のざわめきから切り離されたように静かだった。アサヒは硬い床に仰向けになったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
(……外の空気が吸いたい)
重く閉ざされた扉。その向こうに、薄く気配が揺れる。
「アサヒ、生きてる?」
小さな声が、格子の隙間から滑り込んできた。ニアだった。
「……息抜きに、本、持ってきた」
青い本が、そっと格子から差し入れられる。アサヒは体を起こし、本を受け取った。
「…開けてくれてもいいじゃないか」
そう言ってみたが、返ってくる答えはわかっていた。
「だめ。キサラギに止められてる」
「…僕、なにか悪いことした?」
「してないけど、人は追い込まれないと頑張れないってキサラギが言っていた」
あまりに乱暴な理屈に、アサヒは思わず目を細めた。 でも、確かにこの街は、いつ戦場になってもおかしくない。自分をかばいながら戦うことの負担を思えば、反論する言葉は出てこなかった。そんなことを考えていると、不意に、爽やかな香りが鼻をくすぐった。
それは青い本からするようだ。不思議そうな顔のアサヒにニアはいった。
「その本は、セレナにとって大切なものだと思うから」
アサヒはそっと本の表紙を撫でた。
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城壁の裏手、夕暮れの風が血のにおいを運んでいた。
紫は人目を避け、城壁の影に身を潜めて煙草に火をつけた。肩にかかる髪が風に揺れ、くゆる煙の向こうに、わずかな疲れがのぞいていた。
(……胸糞悪いものを見た)
焦げた肉のにおい。仲間の叫び。自分の手が、誰かの首をねじ切った感触。それら全てが、妖精の力に触れるたびに呼び覚まされる。忘れたふりをしていた過去。
「一人煙草なんて似合わないよ、寂しがり屋のくせに」
不意に、大股で近づいてきた焔羅が笑いながら言った。
「誰が寂しがり屋だ。近寄るな、煙が腐る」
紫はわずかに目を細める。
「寂しがり屋だよ、紫ちゃんは」
それは、どこか自分自身に言い聞かせるような、願いを込めた声だった。焔羅の言葉に返す言葉を探していると、彼の手が伸びて煙草をひったくった。
「おい……」
抗議を発しようとした瞬間、紫の顔をぐっと掴む。
「紫ちゃん、自分のことくらい、自分で飼いならさなきゃ」
ぱち、と音を立てて煙草が地面で潰される。焔羅の鋭い眼差しが、真正面から紫を射抜いた。
「もう、子供じゃないんだからさ」
紫はしばし焔羅を見つめ、ふっと目を逸らした。風が止む。城壁に張りついたような静けさに紫の舌打ちの音だけ響く。血と煙草の匂いが、淡く夕空に溶けていった。
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静けさの余韻をなぞるように、ページをめくる音が、牢の中に響いた。地下の牢。アサヒは青い本を開き、ゆっくりと文字を追っていた。
(…文字が滲んで、よく読めないところがあるな)
剥がれ落ちたように欠けた文字を、アサヒはそっとなぞる。
ページの隙間から、どこか懐かしい草花の香りが立ちのぼる。文字が、香りが、脳裏にじんわりと染み込んでくる。それと引き換えのように、指先から少しずつ感覚が失われていった。
気づけば、視界が揺れていた。身体が、自分のものではないような──薄い膜に覆われた別の何かのような、遠い感触。
青い本が、静かに光を帯びはじめる。視界がじわりと白み、輪郭が滲んでいく。
──そして、風がふと一枚のページをめくった。