心を喰らう病と青い花
むかしむかし、それは――
ひとりの少女の、ちいさな願いごとから、はじまった。
大それたことを望んだつもりはなかった。
ただ、思いがきちんと伝わるように。ただ、誰も痛くないように。そんな、ちいさな願いだった。
何を願ったのか、とてもあいまいで、今さら思い出すことはとてもむずかしいけど。
けれど、たしかに願った。
みんなが笑って、自由に涙を流せる、そんな、つまらないくらい優しい世界を。
それを聞いたとき、妖精は静かに言った。
「それは、とても大きな願いごとだよ」
妖精は、傲慢だよと笑った。
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地下室の空気は冷たく湿っていた。アサヒは一人、石と化したセレナの前で静かに剣を抜いた。
「……お願い。少しでいい。力を貸して」
鞘から滑り出た銀の刃には、何の光も宿らない。ただの金属の反射だけが、ぼんやりと壁に揺れる。アサヒはそっと剣先を石に触れさせた。だが、何も起こらない。
『お前はここで、てめえの力で何とかできるかやってみろ。得意だろ、そういう“看病”みたいなの』
キサラギの皮肉混じりの言葉が脳裏に蘇る。王宮に来て早々、アサヒはこの薄暗く気が狂いそうな地下牢へと押し込まれた。紫とニアに教えられた“石の光”の感覚を思い出そうと目を閉じる。だが、いくら願っても、光は降りてこなかった。
セレナの眠る石像に寄り添うように、アサヒは肩を落とし、そっと目元を拭った。
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「こんなものでも役に立つなら、いくらでも使ってくれて構わない」
アルヴァンの計らいで、キサラギとニアは王宮の図書室へと案内された。
そこには神話や伝承、古い絵本までが、ぎっしりと並んでいた。天井近くまで積まれた本棚から、本の匂いが淡く漂う。
「…おとぎ話ばっかりだな。ほんと、花畑みたいな国だ」
キサラギが呟く。
「みたいものしか、みないんだよ人は。勝手だけど」
本をめくりながら、ニアはどこか遠くを見つめる。姉のことが、ふと頭をよぎった。
「”真実かはかわからない。“御伽噺”が、現実を食べ始めてる”だっけか」
キサラギはニアが見た夢での言葉を、静かに繰り返した。
そのとき――ぱたり、と一冊の本が床に落ちた。他のものよりもずっと古く、背表紙の金の箔押しはすり減って読めなくなっていた。ただ、装丁にあしらわれた花の文様――セレナディア・アロマブルーに似ていたことに、ニアはすぐに気づいた。
キサラギが拾い上げたとき、香りがふわりと広がった。それは、まるで雪解けの水に触れた春の空気のように澄んでいて、青みがかった甘さがありながら、どこか芯のある、静かで凛とした香りだった。
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むかしむかし、この国には「心を喰らう病」があったという。
花の咲く庭にも、子どもたちの笑い声にも忍び込むその病は、やがて人の心を凍らせ、体を石へと変えていった。
そして、誰もが口を閉ざしたころ——
ひとりの姫君が現れた。名はセレナ。
彼女はたったひとつの花を胸に抱き、病に染まった人々に寄り添った。
その花こそが、「夢の香りをまとった青い花」——セレナディア。
その香りをかいだ者は、夢の続きを見て、
眠りの奥でほんとうの自分を思い出すのだと、
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ページをめくるニアの手元を、キサラは眺めていた。どこか遠い記憶をくすぐるような物語だった。
「心を喰らう病……」
本のページの隙間から、どこか甘く、凛とした香りが立ちのぼった。
セレナディアの香り。それは、ただの幻想なのか、過去の記憶なのか——
あるいは、今この瞬間、誰かの祈りに呼応しているのかもしれない。