妖精の呪い
シャンデリアが、琥珀色の光を天井からゆるやかに降らせていた。床を鳴らすハイヒールの音も、笑いさざめく声も、セレナにはまるで水の底から聞こえてくるようだった。
「姫は仮面をお忘れで?」
誰かの軽口に、セレナは小さく笑みを返す。言葉ではなく、ただ頬の筋肉を動かすだけの仮面のような微笑。――ひそひそと、小さな悪意が耳に突き刺さる。
「あのお顔で“姫”だなんて」「王女様とは天と地ね」「妖精を引き寄せるお顔じゃないのにね」「姫の癖に、あれじゃ男も寄ってこないだろ」
社交界において、セレナは常に笑われる側だった。姫でありながら、誰かを言葉で叱ることも、立場を使って黙らせることもしなかった。ただ静かに、じっと悪意を受け止めていた。アルヴァンが拳を握り、ひときわ鋭い視線を向けて前に出ようとする。
「お兄様、やめて」
袖を引きとめるセレナの声は、どこまでも穏やかだった。
「わたしは、大丈夫。いつか、花の姿を知らなくても……香りで好きだと言ってくれる人がいるかもしれないから」
セレナは、そういう子だった。人の悪意を返さず、痛みにも怒らず、ただ静かに祈るように優しさを持ち続ける。アルヴァンにとっては、それがこの世界でいちばん尊く、美しい妹だった。
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「お前と私は、別行動をしたほうがいいだろ」
紫は不満そうな言葉を焔羅にむける。
「アサヒとレイは見習いだ、しかもニアは戦闘力はない。記録役だ。前と同じ編成に戻すのが妥当だろう」
「えー、紫ちゃんひどい、見習いの誰かとこんな危なっかしいとこ行けってこと?」
焔羅はいつもの調子でへらへらと笑いながら、辺りを見渡す。
ここは、ユルザ下町の外れ――ごろつきが溜まり、闇取引と内紛の企みが渦巻く、荒れた飲み屋だった。空気は濁って重い。油と血の匂いが、壁に染みついている。焔羅の言葉に、紫は言い返そうとして――少しだけ、言葉を詰まらせた。
焔羅が口を開いたまさにそのとき、隣の卓から、低くざらついた声が漏れ聞こえた。
「また“石の女”が出たってよ」
「美しくなれると思って妖精を煎じて飲んだらしいが、笑ったまま石になったってな」
紫と焔羅は、自然と耳を傾ける。
「面白そうな話してるじゃん」
焔羅が身を乗り出して声をかけると、隣の男たちがちらりとこちらを見る。
「なに?お姉さんたちも気になっちゃう感じ?もしかしてそれ目的の観光だったりする?」
男は、紫を見て男は言う。
「…そうだな、すごく気になる話だ」
紫はグラスを傾けたまま、静かに男の目を見据えた。その紫水晶のような瞳に、男は一瞬息を飲む。焔羅がわざとらしく咳払いをすると、男はわずかに首をすくめて言葉を継ぐ。
「この辺には、妖精がたくさんいるのは知ってるよな、奴らを体に取り込むと、老けないとか、肌がきれいになるとか……でっかい力が手に入るって、まことしやかに囁かれててさ。ここは、そういう話に詳しい連中が集まる場所なんだよ」
「おーい、お嬢さんたち。こっちの旅人さんが話したがってるぞ」
男が奥へ声をかけると、濃密な香水の香りをまとった女たちが何人も姿を現した。
「そうなの?いまなら翡翠色の子が手に入るらしいのよ。前のは全然効かなかったけど」
「ね、味も酷かったわよね。あの子、たぶん不良品だったんじゃない?」
女たちはまるで新作のコスメを語るように、妖精の“使用感”を話していた。その華やかな衣装のきらめきに、紫は一瞬目を細める。
「……ものにもよるけど、あなたの望むものも、きっと得られると思うわ」
そう言って、女の一人がにこりと笑いながら、紫の胸元に視線を滑らせた。それに倣うように、ほかの女たちもそっと視線を向ける。その意味に気づき、紫の肩が小さく震えた。
「紫ちゃん、落ち着いて……落ち着いてっ!」
焔羅が小声で必死に宥める。
「紫ちゃんは今のままでも十分可愛くて、きれいだよ、胸なんて些細なことだよ!」
とりあえず、紫は焔羅を殴っておくことにした。
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階段を下りるたび、空気がひやりと冷たくなっていく。
湿気を含んだ空気に、金属と土、そしてどこか甘ったるい腐臭が混じっていた。
先ほどの女たちに勧められ、黒服の男に案内された先──
通路の奥に広がっていたのは、まるで倉庫のような薄暗い広間だった。
そこには、無数のガラス製の檻が並んでいた。その一つひとつに、小さな生きものたち――妖精たちが閉じ込められていた。
羽をもがれ、光を失い、身体を小さく折りたたむようにしてうずくまる妖精たち。中には、まばたきひとつせず、ただこちらを見つめ続ける者もいる。
「さっきの女たち、ここで仕入れてたのか……」
焔羅がぽつりと呟く。
光を持たぬ妖精の瞳が、ひとつ、紫を見上げた。その目の奥に、はっきりとした「意志」があった。紫は咄嗟に手を伸ばそうとして――止めた。
『…妖精は悪いものには、悪い物を返す。君たち2人のどちらがかは――わからないけどね』
アルヴァンの言葉が頭をよぎる。
彼らはただの「素材」ではない。ただ黙っているだけで、すべてを見て、覚えている。
「――――あああああああっ!!」
突如、隣の部屋から閃光とともに響く、女の悲鳴。紫と焔羅は、同時に走り出した。扉を開けた瞬間、鼻をつく焦げたような匂い。
床の中央に、石の中に埋め込まれた女がいた。その身体を包んでいたはずの石は、何かに耐え切れなかったように砕け、女ごと無残に崩れ落ちていた。砕けた石の破片と、血の混じった肉片が床を汚している。
「……こんなことも、ありますが、ごく稀なことでして」
背後から、黒服の男が淡々とした声で言った。
すぐに別の黒服たちが現れ、何事もなかったかのように破片を掃き集め、塵取りに収めていく。
「……石になるまで“美しさ”にしがみつくなんて、もはや病だな」
焔羅が低く、呟いた。