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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第四章 甘い憧れ
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自分に向けた毒

 ――重力が戻ったのは、背中に硬い地面を感じた時だった。

 衝撃が抜けきらないまま、どさりと何かが転がる音がする。シンだった。土埃の中から、剣を引きずりながら立ち上がってくる。

「…無事か」

 レイの声が、かすれて闇に溶けた。尚もシンを心配するレイにシンは言葉を投げつける。

「……俺は、お前みたいなやつが本当に嫌いだ」

 シンはゆっくりと、光を帯びた大剣を構え、レイに向ける。

「――なあ、あのときの続き、やろうぜ。あの大会の」

 祖父よりも、兄よりも、あの時手を抜いたレイを、シンは一番許すことができなかった。

 レイは一瞬だけ目を伏せ、それから静かに構えを取る。その姿勢に、シンの怒りが一気に燃え上がった。次の瞬間、金属と金属がぶつかる音が暗闇を裂いた。

「賢くてお強いお坊ちゃんは、俺みたいなの、ずっと見下してんだろ!」

 重く真っ直ぐなシンの剣撃。レイは受け流すたびに後退し、足元を見極める。

「違う……! 俺は強くなんて……」

 その顔だった。レイの、あの申し訳なさそうな顔。シンの怒りは、さらに激しく燃え上がる。

「黙れッ!!」

 怒声とともに、振り下ろされた二撃目。足場がきしみ、土が滑る。

 レイはすかさず重心を傾け、剣を下へいなす。シンの身体が前のめりに崩れ、地面に転がった。そして、シンの重い攻撃に、手から剣をこぼす。

 そのとき――シンの腰のポーチが揺れ、何かがこぼれ落ちかけた。小さな小瓶。冷たい金属のような光沢を帯びたガラス容器。レイはそれを見て、声を失いかけた。

「…シン、お前なんでそれを…」

 脳裏に、忌まわしい記憶がよみがえる。紙袋の男。

『いざって時に飲め。お前みたいな“半端者”にはちょうどいい強さだ』

(――ふざけんな)

 シンは震える手で小瓶を掴み、地面に叩きつけようとした。だが、手は途中で止まる。

 視界の端に映るのは、今もなお構えを解かず、自分を見ているレイの姿だった。

「……やめろ。やめてくれ、シン」

 喉が焼けるように乾き、息が荒れる。視界がぐらつき、耳鳴りがする。焦点が合わない。


 飲めば――本当に、レイに勝てるのか?


***

 薄暗い道場の隅。誰もいないはずのその空間に、ひとつ、杖の風を切る音が響いていた。

(……こんな時間に?)

 シンはそっと障子の隙間から覗き込む。そこにはレイがいた。誰にも見られないように、静かに、しかし限界まで自分を追い詰めるように動いている。

 道着は汗で重く貼りつき、息は荒れ、手の皮はめくれ、指先は腫れていた。それでもレイは、何度も、何度も、同じ型を繰り返していた。

「またやってるの? レイ」

 声の主は、レイの弟――アサヒによく似た穏やかな面立ちの男だった。

「…父さん」

 レイは小さくつぶやいた。

「そんなに頑張りすぎては、体を壊すよ。朝から晩まで、勉強に稽古。無理はしちゃだめだよ」

 レイは俯きながら答える。

「……俺は、父さんやアサヒと違って、何も持ってない。だから……だからせめて、アサヒだけに責任を背負わせる兄にはなりたくないんだ」

 シンは、何も言えずに立ち尽くしていた。胸の奥で、何かが崩れていく音がした。

 自分は“石がある家”への負い目を抱え続けていた。でも、レイはその毒を誰にも向けず、ただ黙って、自分にだけ向けていた。

***

 翌日。道場では、昇級の賞状がレイの手に渡されていた。

「お前の年齢でこれ以上の級は取れない。明日からは大人の部に混ざってもいい。君は師範代になれる器だ」

 周囲の子どもたちが賞賛の声をあげる。シンは、壁際の陰からその光景を見ていた。

 目を伏せ、賞状を抱えながら、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべていた。まるで、その言葉を受け取る資格がないとでも言いたげに。

(……なんだよ、その顔)

 すごいのに。圧倒的に、すごいのに。そんな顔をされて、俺はどうしたらいいんだ。

 怒りなのか、悔しさなのか。燃えるような感情が、胸の奥でうねり続けていた。

***

「あの試合。手を抜かれていたな。遠目にも分かる。恥知らずが」

 祖父の言葉が、何度も脳内で反響する。そして――模擬大会の終わった日。シンは、家の前で黒服の男たちに引き渡されかけていた。

「石なしの処分は早いほうがいい。奴隷商なら、まだ値がつく」

 そのときだった。

「待ってください」

 声とともに、レイが男たちの間に割って入った。何を言ったのかは聞こえなかった。ただ、祖父が渋々うなずき、男たちを引き下がらせた。

 あのときは、何が起きたのか分からなかった。

 ――それが、有名な奴隷商だったこと。 そこに売られた子供たちの多くが、一週間も生きられなかったこと。レイがそれを知っていたこと。

 知ったのは、ずっと後になってからだった。

「……なんで」

 シンはただ、何も知らずにその場で無力感に打ちひしがれていた。


ーーいっそのことそのまま、俺を見殺しにしてくれればよかったのに。


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