石の持たぬ子
石畳が鈍く軋み、裂けた。そこから姿を現したのは、光の残像がねじれ、凝固したかのような異形。輪郭は曖昧で、動くたびに影が地を引きずった。
「……聞いてねぇぞ、あんなグロいの」
シンが静かに、けれどどこか焦りを含んだ声で呟いた。レイも思わず息を呑む。訓練施設に、実物の異形が出るとは思わなかった。
「一箇所に固まるな。意識を分散しろ」
レイの声に、ノノが頷いて右へ展開する。だが、シンはその場を動かない。レイと目を合わせたまま、唇の端を歪めた。
「……お前の指図なんて、誰が聞くかよ」
「…今、言ってる場合じゃないだろ」
シンは剣を握り直し、異形に向かって踏み込んだ。黒い触手が応じるように伸び、迎撃する。
「危ない!」
その時、ノノの声が響いた。異形は背後の床の割れ目から別の触手を伸ばし、二人の死角を狙っていた。
「ーーくそっ!」
レイは即座に振り返り、迫る触手を斬り払う。
「邪魔すんな! お前がやらなくても俺は防げた!」
シンの怒声が飛ぶ。直後、四方から触手が一斉に飛び出した。レイが刀を構えたその刹那、シンは背負っていた大剣を振り上げる。
「だから、邪魔すんなって言ってんだろ……ッ!」
振り下ろされた大剣。レイは紙一重でそれをかわす。巨剣は床にめり込み、異形が空けた穴に沿って床がひび割れた。
脆くなった石畳が、重みに耐えきれず崩れ落ちる。
「――!」
ノノを残し、二人は、音もなく、闇へと吸い込まれていった。レイは、シンの馬鹿力をほんの一瞬でも忘れたことを心底悔やんだ。
***
「なぜお前には、石がないのかねえ」
道場の入り口。冷たい土間に草履の足が沈んでいた。格子の扉の向こうでは、子どもたちがさまざまな武道の稽古に励んでいる。幼いシンは、祖父の呪詛のような言葉を全身に浴びていた。
「うちの家で石を持たずに生まれたのはお前が初めてだった。どう扱えばいいか分からず、武道を一通り学ばせたが――剣道も、空手も、合気道もダメ。お前は一体、何ができるんだ」
小さなシンは、体に見合わぬ大きな杖をぎゅっと握りしめた。
「次の流派混合の模擬大会で何も見せられなかったら、二度と家の敷居を跨ぐな」
手を振るわせながら、祖父の言葉をシンは聞いていた。すると不意に、格子扉が開いた。
「シン、師範が呼んでる」
静かな眼差しのレイがそこにいた。
「……ここ、声けっこう響くから、あんまり大声出さない方がいいよ」
レイはそう言い残すと、足早に皆が正座をしている列に向かって戻った。
「……せめて石がなくても、あの子くらいできたらな」
祖父の声が頭にこびりついて離れなかった。
***
その日の夜、静まり返った庭で、シンは木剣を何度も振った。自分には大きすぎる金棒のようなそれを、必死に握りしめて。空気を裂く音だけが響く中、不意に背後から声がした。
「なにそれ、でっか……やばくね」
後ろで、自分によく似た顔の兄が笑っている。耳についた大きな石を光らせながら。
シンの顔に熱が集まる。恥ずかしくてたまらなかった。
「まあ、いいや。頑張れよ」
兄はそれだけ言って背を向けた。
シンは、その場で立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
***
「次、とうとうお前とだな」
汗を拭いながら、シンが笑う。レイはわずかな間を置いて頷いた。
「……うん。そうだな」
模擬大会は流派混合形式。剣道、空手、柔道、合気道――打撃も投げもありだが、安全を優先した軽いポイント制だった。シンは、決勝まで残っていた。練習が終わった後も一人で練習を重ねてきた成果が出ていた。そして、次の対戦相手はレイ。隣に立てることが、心から嬉しかった。もしかしたら勝てるかもしれない、という小さな希望も抱いていた。
試合が始まる。シンは最も得意な剣を構える。対するレイは、静かに杖を構えた。開始の合図のあと、しばらく探り合いが続く。武器の先端がやや下がった瞬間、二人の距離が一気に縮まる。木がぶつかる音が響く。体勢を整えたシンが剣を振り上げた。
その瞬間、後ろで見ている祖父と兄の目とあった気がした。踏み込んだ足が鉛のように重くなった。
(ーーだめだ、入りが浅い)
再び距離が縮まった瞬間、レイの目は確実にシンの目を捉えていた。レイはシンの踏み込みに合わせて、剣と杖をぶつけた。そして、ほんのわずかに体を預けて、転んだ。
「一本、赤――!」
審判の声に、シンの表情が固まる。
「シンすげえ!」「レイに勝った!」
歓声が湧き上がる。しかし、シンにはそれが遠く聞こえた。
(あれは、俺が勝ったんじゃない)
拍手が響く中、胸の奥だけが重く、痛んでいた。
杖っていうのは、合気道の武器技の長い棒のことです。




