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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第三章 奪われたプリマ
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奪われたプリマ

本作には、以下のようなセンシティブな描写が含まれます:

・性的暴力

・未成年への虐待

・身体的暴力(骨折・怪我の描写)

・自傷・自殺の描写


これらのテーマは読者の心的安全を脅かす可能性があります。ご自身の体調・状況に応じて、無理のない範囲でご覧ください。

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 舞台に上がる前はいつもとても緊張した。震える指先。煮え立つように全身を巡る血の熱。顔を上げ、何かを振り払うように息を吸い込む。


「おねえちゃんは、ものすごくかっこいいよ」


 ニアの言葉を呪文のように反芻し、自分の中の何かに鎧を着せて、舞台へと歩き出した。


***

 鏡張りの教室に、乾いたトゥシューズの音だけが響く。

「メア、腕が落ちてる。もっと、肩から引き上げて」

 コーチの声は、表面上は冷静で、だがどこか湿った気配を含んでいた。プリマに選ばれてから、彼は個人レッスンと称して、メアに触れる時間を増やした。アラベスクを取り直そうとした瞬間、男の手が彼女の腰に回る。

「メア、君はほんとに人を惹きつける、君が舞台に立ったら、もうほかの演者なんて、目に留まらない、君は本当にバレエをするために生まれてきたんだね」

 囁く声とともに、手はメアの肌へと滑り込む。恐怖で、身体が石のように硬直する。それでも、メアは自分に言い聞かせた。バレエさえあれば、大丈夫。


「ほんとうに、かわいいメア」


 心の中までは、踏み入れられないから。


***

 レッスンの後は、いつも世界がぼやけた。現実と夢の境目が曖昧になる。悪い夢を見ているようだったから。まだ目が覚めていないのかと錯覚してしまうから。

 メアは乱れた練習着を脱ぎ捨て、私服に袖を通す。震える足に気づかないようにして、教室の扉を開けた。

 ちょうどその瞬間、扉の外では、母親と幼い子どもがソフトクリームを分け合っていた。


「もう、ほんとうに、可愛いわね」


 母親の穏やかな声が響く。

 その言葉が、男の声と重なる。


 ――メア、ほんとうにかわいいメア。


***

 自宅に帰ると、母はいつものように夕飯の支度をしていた。弟のニアはアトリエにこもり、絵を描いているようだった。

 メアは震える声で母に言った。

「ねぇ、別の教室に通いたい」

 その言葉に母は一瞬手を止め、メアの目を見つめて言った。

「そう…あなたって、そういう人間なんだ」

 喉が詰まる。その一言で、すべてが崩れる。

 ――ああ、私はもう、汚れてしまったんだ。


***

「かわいいよ」

 髪を優しく結ってくれるキサラギといるときだけ、メアはほんの少し、子どもに戻れた。

 このまま、時間が止まればいいのに。

「メア」

 だが、幸せな時間は、いつもあの声に引き裂かれる。


***

「メアかわいいよ」

 繰り返される言葉に、何も感じなくなっていった。心を無にして、ただ「大丈夫」と唱え続ける。一番大切なもの――バレエは、まだ奪われていない。だから、私は大丈夫。男の顔も、声も、もう恐くなかった。

「メア、メア、私をみてくれ、メア、なんで見てくれないんだ……」

 メアの目は、虚空を見つめ、何も映さなかった。

「――ああ、そうか。これがあるからいけないのか」

 男が、そっとニアの足首にある石に触れた。メアの一番大切なもの。

「――いや、やめて」

 瞬間、メアは暴れ出す。それまでの沈黙が嘘のように、男の腕を振り払い、床を這いずる。だが、すぐに足をつかまれた。金属音が鳴る。バレエバーを固定するレンチ。男はそれを手に取り、ゆっくりと振り上げた。

「…嫉妬に、狂ってしまいそうだよ」

 鈍く、重い衝撃音が響いた。

 骨が折れたのか、靭帯が裂けたのか、それはもう彼女にも分からなかった。ただ、床の冷たさと、体の震えだけが確かだった。

 足首に埋め込まれた石が、ピキリ、と音を立てて砕けた。


 そこから先はもう何も覚えていなかった。


***

 気がつくと、ベッドの上だった。メアは砕けた足を、静かに見つめる。

 リボンを拾い、そっと結び直す。床に落ちた片方のトゥシューズ。


 その細いリボンは、彼女の首には細すぎたけれど、もう十分だった。



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