猛獣が徘徊する校舎で
日常は唐突に奪われた。もう、幸せだった時のことは思い出せなかった。
気付いた時には荒ぶる猛獣たちの、檻の中だった。檻の外では、たくさんの大人たちが歓声をあげていた。ぼろぼろになったテオを、ただ見つめながら。
もう動かない足を引きずりながら、檻の入り口を目指した。だが、それ以上のスピードで猛獣の牙がテオに迫っていた。
「テオ!!」
そのとき、クララは爛れた顔の男を制して、檻の中へと飛び込んだ。たった一人の姉は、弟を救うため、自ら狂気へと足を踏み入れた。
ーー思えば、姉を狂わせてしまったのは、僕だったのかもしれない。
そんな遠い昔のことを思い出しながら、廊下を歩くテオはピエロの姿で、鞭を鳴らした。
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アサヒとニアは静かな教室で、息を殺していた。廊下の向こうには、徘徊する猛獣。見つかれば終わりだ。外の異常に、バレリーナたちも気づいていた。彼女たちの無表情な瞳の奥には、はっきりと絶望が見えていた。
アサヒは焦っていた。今、彼の手には肝心の剣がない。
先ほど、紙袋の男の触手が飛び出したとき、アサヒは思わず手を離してしまったのだ。
隣にいるニアも、どこか申し訳なさそうな顔をしている。
「アサヒ、ごめん」
小さくつぶやいたニアに、アサヒは首を傾げた。
「僕が逃げる時、変な方に誘導しちゃったから」
ニアは俯き、前髪で顔を隠した。アサヒは、以前からニアと自分が似ていると感じていた。どこか自信がなくて、でも諦めが悪い性格。
なぜ似ているのか不思議だったが、メアの話、家族の話を聞いて気づいた。 ニアの母親は、アサヒの母にとてもよく似ていたのだ。
「謝らないといけないのは僕のほうだよ」
そう言ってアサヒは両手をひらつかせて、剣がないことを伝えた。
「……なんか、僕たちって似てるよね。ダメダメなところがさ」
唐突なニアの言葉に、アサヒは思わず吹き出した。
「上のきょうだいは出来がいいし?」
それにつられて、ニアもくすっと笑う。
「……僕、ニアと友達になれて嬉しいよ。恥ずかしがり屋のニアも、わがままなニアも」
その言葉に、ニアは目を丸くして、それから小さく意地悪そうに笑った。
「……僕も、割と空気読めないアサヒと友達になれてよかったよ」
その瞬間。 廊下の外から、猛獣の荒い息遣いがすぐそばに迫っていた。鼻を鳴らしながら、アサヒたちの気配を探っている。ニアは、おびえるバレリーナたちに目をやると、いつものたどたどしい言葉で、アサヒに声をかけた。
「アサヒ…ぼく、は…その…走るのはあまり得意ではない、ので…できるだけ早く、来てくれると、うれしい、です」
そう言って突然立ち上がると、ニアは後ろの窓をガラリと開けて、外へ飛び出した。
「こっち、だぞおおお…ッ!!!!!」
その声は、ニアのものとは思えないほど大きく、鮮やかに響いた。その声に反応し、猛獣の赤い瞳がニアをとらえた。ニアはウィッグを脱ぎ捨て、走り出した。猛獣は、その背を追って、アサヒたちの教室を通り過ぎた。
「ニア…ッ!!」
アサヒは、その背を見送りながら、昨日のキサラギの言葉を思い出した。
『あいつはーーーーーーーいざって時、一番カッコいいからな』