グレートマザー
剣を抜いてから数日後、最初の異変が起きた。
それは、すでに亡くなったはずの家の扉が、夜明け前にゆっくりと開いたという話だった。
誰も信じなかった。
けれど、その家の壁には、爪で引っかいたような痕が残っていた。
「村の犬の仕業じゃないの?」
誰かが言った。
でも、その家の犬はもう、とっくにいなくなっていた。
それからというもの、いくつもの家で、人の気配が報告されるようになった。
死んだ人が歩いているという噂が、ひっそりと広がっていった。
「……母さんには、言わないほうがいい」
レイがそう言った夜。
僕はまた、剣を布にくるんで、窓を開けた。
***
あれから、村の空気が少しずつ変わっていった。
咳や熱を訴える声はもうほとんど聞こえない。
かわりに夜になると、戸を叩く音がすると疫病で亡くなった人を持つ家で聞くようになった。
最初にそれを聞いたのは、三軒先に住むおばあさんだった。
「夜中に誰かがうちの戸を叩くんだよ、コンコンって、優しい音でね。あれは、あの子の手だと思ったの。亡くなった孫の……」
誰も信じなかった。
でも次の日、その家の壁には、泥だらけの手の跡がついていた。
屋内から、外へ向かっていた。
やがてその怪談じみた噂は村のあちこちで聞くようになった。
どこかで扉が開く音。そしてそこには帰ってくるはずもない最愛の人が立っているのだという。
朝になると、自分も最愛の人と同じ症状に見舞われる。
「きっと、村の人じゃない」
レイがぽつりとつぶやいた。
***
町の変化とは裏腹に、母はいつもと変わらず、朝食を用意し、口元には微笑みをたたえている。
そんな夜でも、僕は外に出た。
もう何人もの村人が家を出ていなかった。
村人たちは皆、扉の向こうに“何か”がいると知り、家に閉じこもっていた。
僕は剣を背中に背負い、水筒と包帯、古い薬箱を持って歩いた。
息が白い夜だった。
「あいつは、まだ生きてるかもしれない」
視線の先には、先日疫病で亡くなった妻の布団があった。
人の形に沈んだままの布団。そこには、まだぬるい体温の名残があった。
窓が、ほんの少しだけ開いている。
「……まだ近くにいる」
僕は、村の奥にある、小さな礼拝堂へと向かった。
そこが、死者を安置する場所になっていることを、レイから聞いていた。
扉の前に立ったとき、息が凍った。
その隙間から、聞こえる不気味な音に。
骨がきしむような音。
布が地を擦る音。
そして――誰かの、うめき声。
僕の手は、剣の柄に触れていた。
でも、開けなければ。
ここで何が起こっているのか、知っておかなければならない。
扉が、きぃ、と軋んだ。
その瞬間僕は息を飲み込んだ。死者が横たわる中央に、よく見知った人物の後ろ姿があった。
「アサヒ、どうしてこんなところにいるの」
冷たい声が小さな礼拝堂に響いた。ゆっくりと、ゆっくりと顔がこちらに向く。
心臓の音が、剣を抜いたときよりも騒がしく響いた。そこには僕が最もいてほしくない人物がいた。
「…かあ、さん」
僕は浅く息を漏らした。
口元は笑っているのに、目が笑っていない。穴のように黒く、深い影を落としている。
「勝手なことをするなんて、ほんとにあなたはダメな子ね」
“母”が一歩、また一歩と歩み寄るたびに、鉛のような言葉が響いた。
「あなたなんかがやりたいことを好き勝手にしたら周りに迷惑がかかるの」
僕の聞きたくない言葉で頭の中が真っ黒になっていく。
「あなたが剣を抜いたからってなんになるの?」
さっきまで感じていた志が一つずつ奪われていく。
「何も変わらないのよ」
肩が震え、手も震えた。
「気が大きくなって恥ずかしい子ね」
顔に全身の血が集まるのを感じる。
「よく、わかっているでしょう?」
“母”の顔が、ぐにゃりと歪んだように見えた。
「やめろ」
その瞬間、背後から、レイの声がした。
振り返ると、レイが肩で息をしながら父の形見の刀を抱え、立っていた。
「お前、何してるんだ……っ」
はっとして、すぐに母親のほうに視線を戻す。
そこにいたのは、もう母ではなかった。
暗がりの中に、白く濁った瞳が浮かんでいた。
その顔は――かつて僕が看病していた、あの人のものだった。
レイが僕の手を強くつかんだ。
「もう無理だ、やめろ」
「でも、もしかしたら助けられるかもしれない」
「違う、もう人じゃないんだ」
「でも……」
「無理だと言ってるんだ!!!」
それは一番聞きたくない言葉だった。
レイもはっとし、唇をかみしめる。
「……それでも、さ……」
そのとき、レイが言葉を失ったのを見た。
手の力が、少しだけゆるんだ。
「もう少しだけ、頑張っても……いいかなあ……?」
僕は頑張ることさえ、許してもらえないのだろうか。
***
「……っ、来るな!」
レイの手がとっさに僕の肩を引いた。
その瞬間、うめき声が止まり、それはゆっくりと近づいて来る。
肌は灰のように乾き、唇は裂け、首が、骨ごと傾いていた。
それでも、僕を見て、手を伸ばしてくる。
もう“人間”姿ではなかった。
「たす……け……て」
かすかに、そう――聞こえた気がした。
それが“助けを求める声”なのか、“僕を引き込むための声”なのかは、わからなかった。
僕は剣を抜こうとした。けれど、腕が震えた。
これは“救う”ことなのか、“斬る”ことなのか、わからなかった。
レイが前に出て、僕の前に立ち、剣を構える。
「……俺がやる」
そう言ったときだった。
扉の奥からもう一体、“それ”が現れた。
さっきのものとは違い、骨の軋む音も立てず、まっすぐにこちらへ――レイの喉元へ向かって跳びかかってきた。
「レイッ!」
瞬間、僕の手が勝手に動いていた。
背中の剣を抜き、振るう。
視界が一瞬、白く光った。
「――?」
“それ”は空中で真っ二つに裂け、霧のように崩れた。
音もなく。血もなく。ただ、光の残滓のようなきらめきを残して。
レイが目を見開いてこちらを振り向く。
僕自身も、自分が何をしたのかわからなかった。
剣は、確かに僕の手の中にある。剣を握る手が、まだ熱を持っていた。けれどその熱が、僕のものか、誰かのものかはわからなかった。
「……お前、いまの……」
レイは何かを言いかけて、ふいに黙った。剣を見つめるその目は、悲しみと、諦めのようなものを感じた。
光の正体を確かめる間もなく、礼拝堂の奥から、さらに大きな影が現れた。
人だったもの。けれどもう、人ではない。腐敗と変質が進んだ体を引きずりながら、こちらへと迫る。
「……っ、また来た……!」
レイが剣を構えかけた、その瞬間――
パンッ、と乾いた銃声が響いた。
「下がってろ、坊主ども」
煙の匂いとともに現れたのは、ロングコートを羽織った男だった。
口には煙草、目元は鋭く、手には銀色の拳銃。
「ゾンビもどきが幅利かせてるとか、終わってんなこの村」
その後ろから、もうひとり。
黒いレースのワンピース、編み上げブーツ。ツインテールの髪を揺らしながら、少女が無言で歩いてきた。
口元は堅く結ばれ、頬はうっすらと赤い。手にはスケッチブック。
「……誰?」
弟の問いに、ロングコートの男は煙をふかしながら、こちらをみる。
「俺は保健所の研究室の調査員だ、疫病の調査に来た」
聞いたことがある。様々な病気のワクチンの開発や調査、国家ヒーラーの育成を行う研究室があるということは。
もうこの村は完全に国にまで見放されたのかと思っていた。
無口な少女は、ちらりと弟に視線をよこし、男の後ろに隠れながらペンで何かを素早くスケッチする。それを見た男が言う。
「おい、照れてんじゃねぇ」
帽子のつばを指先で押さえ、低い声がつぶやく。
その後ろのスケッチブックを小脇に抱えた華奢な少女は、兄弟をまっすぐに見つめていた。
「……剣、抜いたんだね」
そして、こう続けた。
「ウィルスはもう、ただの病気じゃない。きみたちだけじゃ、止められない」