プリマは来ない
とある早朝のことだった。
バレエ教室が休みの日でも、キサラギには掃除の仕事があった。
ふと更衣室の前を通ると、扉がわずかに開いているのが見えた。鍵の閉め忘れかと思い、何気なく近づくと――中には、憔悴しきったメアが座り込んでいた。
乱れた髪、散らばったトゥシューズ。床に崩れ落ちた彼女の足首には、あの“石”がきらりと光っていた。
「…ねえ、私って、かわいい?」
キサラギは息をのんだ。その言葉の意味はわからなかった。ただ、今にも壊れそうなメアを前にして、答えはひとつしかなかった。
「かわいいよ」
するとメアは、ふるふると首を振った。
「うそ……うそよ。かわいくなんかない。みんな、うそつき……」
俯いたまま、声を震わせる。
「本当にかわいかったら……こんな…」
どうしてやればいいのか、キサラギにはわからなかった。
だが、ふとある記憶がよみがえる。 昔いた孤児院で、小さな女の子が、髪を結んでもらって嬉しそうに笑ったことがあった。
キサラギは、そっとメアの髪留めを拾い上げた。
「……メア。後ろ、向いて」
慣れた手つきで、彼女の髪を二つに結う。
「ほら、かわいい」
そう言って鏡を見せると、メアは小さな子供のように――はにかんだ。
それからも、メアは時折取り乱すことがあった。
そのたびにキサラギは、「かわいいよ」とおまじないのように繰り返し、髪を結ってやった。
そしてメアは、何事もなかったかのように、舞台の上で笑って踊った。
――今思えば。 なぜもっと早く、気づいてやれなかったのだろう。
プリマの真実に。
***
あの夜のことを、キサラギは夢で繰り返し見る。まるで、忘れることなど許されないかのように。
少女の嗚咽。乱れた白い衣装。無数の痣に、砕けた足元の“石”。倒れ伏したメアの傍らには、膝をつく男がいた。
静かに、彼女を見下ろしていた――あの、怪物が。
キサラギは、器具室の棚からアルコール缶を取り出し、忘れられたままのライターを、ポケットに忍ばせた。何をしようとしているのかは、あまりにも明白だった。
火は、あっという間だった。男が、燃える。叫ぶ。目の前で、あの怪物が――ただの“人間”のように、のたうち回っていた。
キサラギは、壊れてしまったプリマをただ強く、強く抱きしめた。




