はじまりのレッスン
団長室の扉が、きしむ音を立ててゆっくりと開いた。
「……私が待っているのは君みたいな、無骨な男じゃないよ」
団長は椅子に座ったまま、窓の外に視線を投げたままだった。振り返りもしない。そこに立つキサラギを、まるで“人間”ではなくただの空気のように扱う。
その顔は、かつての面影を失っていた。焼け爛れ、歪みきった皮膚。だが、キサラギにはすぐに分かった。この男は――あの時のままだ。
「……ずいぶん老けたな、掃除夫の坊や」
団長の嗤うような声に、キサラギの脳裏にフラッシュバックする。
幼いころのキサラギの前で火だるまになる男の姿。
「…いくら待っても、お前のとこにはプリマは来ねえよ」
キサラギの言葉に、団長の眉がほんのわずかに動いた。
***
掃除の時間が終わった後の、薄暗いスタジオ。モップを片づけたキサラギは、隅にうずくまる少女の隣に静かに腰を下ろした。膝を抱えているのは、――メアだった。
「今日は、どうだった?」
そっと声をかけると、メアは手をぎゅっと握りしめたまま、目を伏せて答えた。
「……笑って踊ればいいって、言われた」
「そんなの気にしなくても、綺麗だったけどな。今日のグラン・ジュテ、ちょっと跳びすぎて怖かった」
「うそつき……でも、ありがと」
それが、彼らの日常だった。キサラギは、毎日メアの汗の染みたトゥシューズを拭いた。メアはそのたび、ほんの少しだけ――笑った。
「…メア、少しいいかい?」
背後からの声に振り向くと、そこにはきれいな栗毛の髪を揺らした端正な顔立ちをした男が立っていた。
「コーチ…」
男はこのバレエ教室の主だった。メアは時折、こうして彼に呼び出されることがあった。それは決まってほかの団員が帰ったあとだった。
「…わかりました」
メアの表情が曇るのが分かった。彼女はエースで、将来を嘱望されるプリマ。その“個人レッスン”は、期待の裏返し――とされていた。
メアはそのまま奥の部屋に、コーチに連れられて行った。扉がゆっくりと閉まる瞬間、メアが見せたまなざしが、何を訴えていたのか、そのときは分からなかった。
そしてその日から、メアの様子は少しずつ――確実におかしくなっていった。
***
「お母さんに、教室を変えたいって伝えたの」
いつものように練習後に話していると、メアがぽつりと口にした。今まで何気なく、話していたこの時間は、コーチの個人レッスンの待ち時間になっていた。
「メアは、教室を変えたいのか?」
「…別に、有名になりたいわけじゃないし。踊れれば、それでいいしね」
この教室はこのあたりでも有名で、親たちは競うように子を通わせた。笑うメアの横顔にキサラギは少しだけ寂しさを感じていた。
「でもさ、お母さんが言うの。“あんたは、そういう人間なんだね”って」
その一言が、やけに重く響いた。キサラギは、何と返せばいいのか分からなかった。
「メア、時間だよ」
コーチの声が、静かな空間を裂いた。




