静かなテントの中で
猛獣たちが静かに眠るテント。 その隙間から、一瞬だけ光が漏れる。 開いた幕の向こう、紙袋をかぶった一人の人影が立っていた。
気配を感じてか、猛獣たちは低く唸る。だがそれも一瞬。 紙袋の男は、そっとポケットから緑色のアンプルを取り出し、ひとつの檻の前にしゃがみ込んだ。
「…すこしだけ、痛いかもだけど」
静かなその声は、猛獣にだけ届いた。
***
太陽が昇り、数時間後。 練習場にはふたたび、弾む音と子どもたちの声が戻っていた。
「動きの流れが止まってるの、ここ。分かる?……ちょっとだけ後ろに意識して。そう、それくらい」
クララの声に合わせて、動くレイは驚くほどに“バレエリーナ”に見えた。
「…すごいわね、そこそこ見られるレベルにはなったわ」
感嘆まじりの言葉に、アサヒは床磨きの手を止め、ちらりと視線を送る。
レイは、やはり飲み込みが早い。というより――「体の使い方」を教えられると、何ひとつ取りこぼさずに理解してしまう。
ため息が漏れそうになり、アサヒは横で欠伸をしているケイを見やった。
「毎日毎日、同じ場所ばっか磨いて、意味あんのかねえ」
ぼやくケイの声を、アサヒはただ聞き流した。
「ねえ、ケイはどうして、ここで働いてるの?」
少し唐突すぎたかもしれない。けれど、ケイは意外にもあっさり答えた。
「あー…俺の母さんさ、病気で働けないんだよねー。だからこうやって、俺が出稼ぎに来てんの」
“病気”という言葉に、アサヒの手が止まる。 村で流行っていた疫病――意識の戻らない母の姿が脳裏に過ぎった。
「…僕のお母さんも今、意識がないんだよね」
何気なく漏らしたその言葉に、ケイは目を見開き、思わずモップを落とす。 そして、アサヒの肩を強く掴んだ。
「まじかよ、それ、一緒にいてあげなくて大丈夫なのか?……俺、お前の分の仕事やっとこうか?」
その必死な様子に、アサヒはむしろ面食らった。
「いや、今すぐ、どうにかなるようなことじゃないから、大丈夫だよ」
ケイは一言「そうか」とほっとした声を漏らすと、アサヒの肩から手を離した。
(意外とケイってお母さん思いなんだな)
そんなことを、アサヒは静かに思った。
***
一方で、ニアは反対に調子を崩していた。 伸ばしたつま先は小刻みに震え、視線もまともに上げられなくなっていた。
「参ったわね。どうしちゃったのかしら……公演も近いのに」
クララの呟きに、ニアはさらに強張った表情を見せる。
「ちょっと休憩しましょう」
レイがそっと声をかけようとするも、ニアはその手をひらりとかわし、
「顔、洗ってくる」
と言い残して、練習室を出ていった。
その後ろ姿を、ただれた顔の男が陰から見つめているとも知らずに――。
***
テントの外の水道。蛇口をひねり、水を手に受けるニア。
(……ダメだ、完全に引きずられてる)
自分の不調に気づいてはいる。でも、どうしようもなかった。
そのとき、不意に背後に気配を感じた。
「……ダメだ」
掠れた声が、ニアのすぐ後ろで響いた。
「やっぱり、あの子の“石”がなきゃ……あの子にはなれない」
ゆっくりと、男の手がニアの肩へ伸びる――
「ニア、クララが呼んでる」
突然、ぴたりとその手を止めたのは、レイだった。 男の手首を掴み、そのままニアの前に立ちはだかる。
紙袋の男は一瞬だけレイの顔を見つめ、何も言わずテントの中へ消えていった。
「ニア、あれは……どういうことだ?」
静かに問うレイに、ニアは少し俯きながら、昨夜の出来事を――少しずつ、語りはじめた。




