レイ
ある日、弟が勇者の剣を抜いた。
剣に挑んだ自分の掌がまだひりついていた。
その目の前で泥にまみれた柄を握りしめた弟の手の甲には、緑色の石が淡く光っている。
「ほんとに抜いちまったよ!」
「やっぱ、“石つき”は違うな!」
遠くで村人たちの声が聞こえる。
耳の奥でゆるく響くそれを、現実だと認めたくなかった。
起きてほしくなかったことが、始まってしまった。
俺は知っている。
アサヒみたいな人間が、無責任な大人たちによって“何か”を背負わされることを。
俺は知っている。
アサヒみたいな人間は、納得した顔で、ひとりで行ってしまうことを。
***
疫病が流行る前、母とアサヒと三人で市場に行ったことがあった。
母が商品を選ぶあいだ、僕らは広場で噴水を見ながら、ぼんやりと時間を潰していた。
「……母さん、なんで毎回一緒に連れてくるんだろ」
「長いからな、買い物」
言葉少なに並んで座る僕たちの前で、一人の少女が木の根元に崩れ落ちた。
「危ない!」
アサヒはすぐに立ち上がり、駆け出していた。
少女に触れた瞬間、アサヒの手の甲がふわりと光った。
「……あれ?」
「大丈夫?」
少女はきょとんとした顔で、首を傾げる。
「一瞬、目の前が真っ暗になったけど……うん、大丈夫みたい」
そのときアサヒは、きっと医者になるんだと思った。
そして背後から、母が買い物かごを取り落とす音が聞こえた。
***
疫病が村に入り込んでから、母は僕たちにますます干渉するようになった。
家中の鍵をかけ、アサヒには外出を禁じた。
「アサヒ、外に出るのはだめよ。要領の悪いあなたが外に出たら迷惑がかかるわ」
「この村では、ちゃんとしないとだめなの。わかるでしょ?」
母は神や儀式や祈りなんて信じてない、と言いながら、“祈り”という名の呪いを自分たちにかけていた。
そしていつもその言葉を聞きながら、ただそれが終わるのをじっと待っていた。
本当は、気づいているはずなのに。
弟がダメなやつじゃないって。
けれど母はいつもやり方を間違える。
大人っていうのは、どうしてああも簡単に間違えるんだろう。
「レイは頭の良い子ね、将来はお医者さんね」
「あなたしか頼りにできないわ」
そう言って母は、家事も買い物も大量の問題集も、すべて俺に預けていく。
俺はいつものようにこなして、いつものように“窓の鍵をかけ忘れる”。
***
アサヒは、毎晩こっそり家を抜け出していた。
最初は、ただ気晴らしに外へ出ているんだと思った。
この家は、あまりにも息苦しすぎたから。
けれどある夜、さすがに心配になって後をつけてみた。
アサヒが入っていったのは、疫病で寝込む老人の家だった。
もう誰も看病する人がいない、静まり返った家。
気が気じゃなく、そっと、窓から覗いた。
アサヒは老人の熱を測り、水を含ませ、額に手を当てる。
小さく、頼りない手で老人の手を握る。
あの日の噴水で見た光が、今度は現実になっていた。
「きっと大丈夫」
その姿は誰よりも“医者らしく”見えた。
***
ある夜、階段を上る音で目を覚ました。
不安を感じて部屋を出ると、母が二階へ向かっていた。
「どうしたの?」
「最近、あの子が妙におとなしいの。あの子、いつも何かしら文句言うのに、最近は何も言わないでしょう?」
母のいう“あの子”はアサヒのことだ。
母は、こういうときにだけ妙に鋭い。
「……最近、眠れてないみたいで。ずっと家の中だからかも。最近は一緒に問題集やったり、トランプで遊んだりしてたんだ。ごめん、やっと眠ったから起こさないでくれる?」
咄嗟に笑顔を貼り付け、でた嘘に我ながら感心した。
母には悟らせてはいけなかった。
「そう……あなたが言うなら、安心ね」
母はそれだけ言って、階段を降りていった。
***
そしてあの夜。
アサヒは剣を抜いた。
俺が何度挑戦しても動かなかった剣を、あいつは簡単に抜いた。
勇者らしからぬ不安そうな顔をしながら。
帰宅してすぐ、アサヒの手が震えているのに気づいた。
この家で、少しずつ削られてきた自尊心が、今にも崩れそうだった。
「……母さんには?」
「……まだ」
母は儀式に来なかった。
神や祈りを嫌っていた母は儀式を遠ざけていた。
「今日はもう寝よう」
「……大丈夫だ、お前だけには背負わせない」
弟の返事はなかった。
僕はそっと布団の中に自分も同じように震える手を隠した。
***
朝。眠れぬまま目を覚まし、水を汲みに台所へ向かった。
どうせアサヒも眠れていないだろう。
グラスをもう一つ手に取り、部屋に戻ろうとしたとき――
母が、アサヒの部屋へ入っていくのが見えた。
胸がざわつく。
廊下を辿って、開いたままの扉の前で立ち止まる。
「これ、どこで拾ったの?」
「……抜いたんだ。昨晩」
「そう……」
細められた目が、形だけの笑みを浮かべる。だがその裏には、焦りがあった。
「……それは、本当にあなたが抜いたの?」
「うん」
「何かの間違いじゃない? 本当は誰かが用意したんじゃないの?」
弟の息が止まったのが、分かった。
「あなたには、抜けるはずがないわ」
母の祈りのような声が聞こえる。
俺は扉の前で立ち尽くした。
まるで俺がいないかのように、母の声のトーンは変わらなかった。
「お母さん、心配なのよ。あなたが変な誤解をされないかって」
「……僕は、病気の人を治したい」
弟の絞り出すような、だけど強い言葉が聞こえた。
「あなたみたいな子が何かをしたら、とても迷惑だわ」
どちらの言葉の意図も、俺には痛いほど分かってしまう。
だけど、どちらも正しくなんてなかった。
弟はこれから、その“才能”の責任を問われ続けるだろう。
周囲からも、世界からも。
***
その夜、僕はそっと声をかけた。
「……大丈夫か」
返答のない弟に、俺は正しい言葉をかけることができなかった。
「無理は、しないでくれ」
僕はあの日、誰にも聞こえない誓いを、またひとつ、噛み潰した。
レイは母と話すときは一人称が僕になります。