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告別の光

 まぶしさに目を焼かれる感覚で、タカセははっと目を開けた。

 視界に広がったのは、もう海辺でも朝日でもなかった。

 薄汚れたコンクリートの天井。壁を伝う水滴の音。

 錆びた機械の匂いが鼻を刺す。

 ――電気室の奥にある、小さな保守室。

 夢の中とは違い、老いた自分の体は重く、こわばっていた。

「……タカセさん」

 弱々しいようで、どこか芯を持った少年の声が響く。

 身体を動かすのも億劫で、視線だけを声の方へ向ける。

 そこには、突き刺さるような三つの視線があった。

(……やっぱ、直接、言いに行くわ)

 夢の中で口にしたはずの言葉が、まだ胸に残っている。

 まるで現実の約束のように。

 タカセは息を吸い込み、ゆっくりと身を起こした。

 保守室の小窓の向こう、薄く差し込む光が揺れている。

「……告別式に、間に合いそうで良かった」

***

 こんなとこまで、潮の香がするのかと、タカセは静かに場違いなことを考えていた。

 海を越えるほど離れた土地のはずなのに、まるであの夜の海辺の続きのように、気配がまとわりついていた。

 荘厳な音楽とともに、会場のスクリーンに”レオ”の笑顔が流れる。

 多くの人を魅了したスター。参列者たちは涙を拭い合い、彼を「レオ」と呼んで惜しんでいた。

 ほんの少し一人にしてくれとアサヒたちに告げ、タカセは重い車いすを自ら押して後方に下がった。

 照明が鮮やかに会場を照らしても、その光はここまで届かない。

 人波の最後列から、彼はまっすぐ前だけを見ていた。

 映像の中で若き日のレオが歌い始める。会場は熱狂し、拍手と嗚咽が渦を巻く。

  あの時のライブ会場にいたときと同じように、熱くなる観客の背中を見つめた。そんな彼らとは裏腹に、タカセはひとり冷たい風に晒されているかのように感じていた。

「……ヤナギ」

 その声は誰にも届かない。

 群衆の歓声にかき消され、ただ一人、少年時代の彼を知る人間の呼びかけとして消えていった。

 ――タカセ。

 聞こえるはずもないヤナギの声が、タカセの脳裏に響く。

『いつか、好きなものも嫌いなものも語れるようになればいいな』

 そういって、ヤナギは力をこめた。

 あの時の言葉。あの時の温もり。

 目を覆われて表情は見えなかったのに、不思議と分かっていた。

 ヤナギは馬鹿みたいに素直で、真っ直ぐで、震えながらも自分に近づいてくるやつだった。

 そして、それを見て見ぬふりをした自分の罪深さ。

 この感情を何と呼べばいいのか、タカセには分からない。

 ただひとつだけ、胸に刻まれていた。

「……あんな力、使わなくたって……お前はもう、俺の中にいたよ」

 誰にも届かない、ひとりきりの言葉。

 それでも確かに、タカセの胸には残り続けていた。


***

 告別式が終わり、参列者のざわめきが静かに引いていった。

 人影もまばらになった頃、アサヒがそっと車いすのハンドルを握る。

「……そろそろ行きましょう」

 出口へ向かおうとした、その時だった。

「タカセさん、ですか?」

 不意に呼び止められる。

 振り返ると、ヤナギの元メンバーと、黒いスーツを着た男が並んで立っていた。

 その手には、一通の封筒。

「名簿にお名前がありましたので……もしかして、と」

 スーツの男が静かに言葉を継ぐ。

「私、レオのマネージャーをしておりました。生前――もしあなたが告別式に来られたら、渡すようにと託されていまして」

 差し出された封筒は驚くほど軽いのに、掌に乗せた瞬間、ひどく重く感じられた。

 戸惑うタカセに、メンバーのひとりが肩をすくめる。

「あいつ、結構こじらせてるんだぜ、すげえ時間の無駄使い」

 呆れたような声でさらに続けた。

「……まぁ、話聞いてる限りあんたもだろうけど。ちゃんと受け止めてやってくれよ」

 促されるように、震える指先で封を切る。

 ――お前がここに来たってことは、きっと俺の勝ちだな。

 わざわざこんなとこまで来るなんて、本当に面白い。

 ――向こうで待ってる。


 タカセはしばらく、紙面を見つめ続けた。そして確かめるように何度も指先でなぞった。

 胸の奥がじわりと熱くなるのを、どうにも抑えられない。

「……はは」

 抑え込むように煙草を取り出すが、火をつけることはできなかった。

 ただ強く握りしめる。

「……くそ」

 低く吐き出すように呟き、そして、かすかに笑みがこぼれる。

 それが悔しさなのか、安堵なのか、自分でも分からない。

 目を閉じ、深く息を吐く。

 とりあえず、向こうに言ったら文句の一つでも言ってやらないといけない。


***

 消毒液の匂いが鼻を刺す白い部屋。

 規則正しい心電図の音が、淡々と時を刻んでいた。

 やせ細った身体に寄り添いながら、アサヒは両手で細い手を握り、額に寄せる。

 タカセの胸はかすかに上下を繰り返す。そのたびに時間が少しずつ削られていくのが分かった。

 手の甲の石が、緑色の光を静かに放つ。

 それは癒やしではなく、ただ痛みを遠ざけるための光だった。

 薄く開いた瞼がこちらを向く。

 かすかに動く唇はもう何を言っているのか聞き取れはしなかった。

 ただ、ほんのわずかに口角が上がった気がした。


 アサヒは目を閉じ、祈るようにその手を握りしめる。



 数瞬ののち、光は静かに沈んでいった。


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