毒みたいな歌
会場の扉を押し開けると、熱気と歓声がぶわっと押し寄せた。
ステージの光は強く、観客は熱狂に飲まれている。
タカセは、ただ静かに一番後ろに立った。
視線の先、スポットライトに照らされたヤナギ。
マイクを握り、喉の奥から絞り出すように歌っている。
その横顔は、今まで見たことのないほど真剣で、そして楽しそうだった。
――気づかれるはずはない。
そう思った瞬間、ヤナギの視線がすっと後方に流れる。
観客の海の隙間を縫って、まるで真っ直ぐに。
目が合った。
直観的に、これは毒だと感じた。
数え切れないほどの視線の中で、自分だけが選ばれたかのような錯覚。
普段の緩んだ笑顔も、口ずさむ鼻歌も知っている。
観客の視線に熱が帯びれば帯びるほど、自分だけが知る姿と混ざり合い、胸の奥に優越感が膨れあがる。
錯覚しないようにと努めて高ぶる感情を抑え込むが無駄なことだった。
ヤナギの口元がほんのわずかに緩む。
それは観客に向ける笑顔とは違う、ごく個人的な安堵の色だった。
喉元の石がわずかに光を放つ。
それに呼応するように、観客の歓声はさらに高まる。
タカセは、ただ黙って立ち尽くしていた。
声を上げることも、拍手することもできない。
けれど胸の奥に、確かに何かが響いていた。
――毒のように。
***
アンコールの声が響き、最後の音が鳴りやんだ。
観客の歓声が渦を巻きながら広がっていく。
それは祝祭のようで、同時にどこか遠い世界の出来事のようにも感じられた。
タカセはその熱狂から背を向け、会場を出た。
外の空気は驚くほど冷たく、耳に残る音がかえって鮮明になる。
鼓膜に残るのはヤナギの歌声――毒のように染み込んだまま。
裏口のあたりに足を運ぶ。
そこだけは、熱狂の余韻が届かない。
照明もまばらで、スタッフが時折出入りする以外は、ひどく静かだった。
タカセは壁に背を預け、煙草を指に挟んだまま火もつけずに待っていた。
胸の奥はざわついている。
会いたいのか、自分でもよく分からない。
やがて扉が開き、光と笑い声が一瞬だけ漏れる。
その中から、髪をかき上げながら、ヤナギが姿を現した。
ステージの上とは違う、肩の力を抜いた顔。
それでも、あの喉元の石だけはなお淡く光を残していた。
ヤナギはタカセの姿を見つけて立ち止まる。
そして、口角を上げて言った。
「……待っててくれた?」
「……ちょっとな」
煙草を指で転がしながら、曖昧に答える。
それ以上、言葉は続かなかった。
スタッフの笑い声や、撤収の気配が耳に残っている。
そのざわめきの中にいたくはなくて、二人は自然と歩き出していた。
街を抜けると、夜の風が熱気をさらっていった。
潮の匂いが混じる。
ヤナギが軽く鼻歌を口ずさむ。さっきステージで歌った曲の一節。
タカセは足を止め、横目で見やった。
「……まだ歌うのかよ」
「歌いたいの、俺は―」
ヤナギは笑い、ポケットに手を突っ込んだまま歩調を緩めない。
やがて視界が開ける。
夜の海。
波打ち際に映る月明かりが、静かに揺れていた。
夜風が、まだ残る熱気をさらっていく。
照明の光を浴びた余韻を引きずるように、ヤナギの横顔は汗で濡れ、どこか満ち足りて見えた。
「……すごかった」
タカセは不器用に口を開いた。あのライブにはそれ以上の言葉はなかった。
「……だろ?」
ヤナギは肩を揺らし、軽口を返す。鼻歌まじりに歩いていくその背を、タカセは黙って追った。
すれ違う人が、ちらりとヤナギの喉元を見ていく。
月明かりを受けて、石が微かに光を返していた。
ヤナギは無意識に喉元へ指先を添える。
「……俺の歌は努力の結晶なんだぜ。努力家なんだよ、俺」
そう告げるヤナギの瞳の奥はほんの少し、悲しさを孕んでいた。石つきでもこんな顔をすることがあるのか、と偏見まみれの考えが浮かぶ。
「はは、自分で言うか」
「いやー……なんとなく、お前には勘違いしてほしくないなーって」
タカセは小さく首をかしげる。
ヤナギは視線を前に向けたまま、少し声を落とした。
「他の奴なら別にいいんだけど……お前にはさ、ちゃんと知っててもらいたくて」
その真っ直ぐさが、逆に胸に刺さる。
自分なんかに向けられるのは、もったいない――そう思うからこそ、タカセの中に罪悪感が芽生えた。
「……お前が思うほど、俺って大したことないよ?」
らしくないことを言ってしまったと思った。いつもの軽口がうまくできない。そんなタカセの気持ちを察してか、ほんの少しゆるい口調をヤナギはみせる。
「……女たらしのクズだし?」
「そーそー」
わざと軽く返してから、タカセは小さく笑ってすぐ俯いた。ヤナギのこういうところが好きだった。吹いたら飛んできそうな軽い会話なのに、確かに残る感じ。
「……小さいことひとつも許せない、大人ぶった子供だし」
でも今日のタカセはおかしい。その距離感を崩すような言葉を選んでしまう。
その表情を覗き込むように、ヤナギは足を止めた。
そして、にかっと笑う。
「許さなくていいんじゃね?別に。一生恨んでこーぜ」
その無邪気な光に、タカセは思わず見とれていた。
月明かりに照らされた笑顔は、無邪気で、毒のように甘かった。




