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取り返せない過去

 ――なんで、こんな日に。

 それが素直な感想だった。

 週末の街はいつも以上にざわめき、濁光のネオンが宵闇をせわしなく照らしている。

 タカセは黒服を羽織り、裏路地へ足を踏み入れた。

 オーナーの言葉は「軽い荷運び」――ただ、それだけのはずだった。

「こんなの聞いてねぇ!! ぜってぇ渡さねぇ!!」

 路地の奥、黒服たちに囲まれた一人の男が、必死に小さな包みを抱え込んでいた。

 叫ぶ声が響くたび、視線が自然とタカセに集まる。

「……話をつけろ、ガキ」

 吐き捨てるような声。

 荷物の正体も知らされていないまま、タカセは彼らの視線を静かに受け止めた。

 ――新人がどこまでやれるのか、試すような眼差し。

「……分かりました」

 肩をすくめ、一歩前に出る。

 次の瞬間、乱闘が弾けた。

 拳が飛び、靴音が響き、怒声が夜気を震わせる。

 タカセは打撃をかわし、受け流し、ときに鋭く打ち返す。

 だが心は妙に散っていた。

『ねぇ、やっぱライブ絶対来てよ。……お願いだからさ』

 ――あの声が甦る。

 冷たい水滴の音とともに、蛇口の前で交わしたヤナギの言葉。

 押しつけがましくない、ただ真っ直ぐな「お願い」。

 それなのに、不思議と逆らえない強さが宿っていた。

 仕事が片付けば、顔くらいは出そうか。

 ほんの少し、そう思っていた。

 だが今の状況では間に合うかどうかも怪しい。

(……行くとは、言ってないしな)

 誰に聞かせるわけでもなく、心の中でそう呟いて自分を誤魔化した。


***

 照明の熱と歓声のざわめきに包まれたライブハウスの舞台袖。

 ヤナギはギターケースを壁に立てかけ、深く息を吸い込んでいた。

 胸の奥がやけに落ち着かない。

 それが緊張なのか、期待なのか、自分でも分からない。


 メンバーの一人が「そろそろ出番だ」と声をかける。

 ヤナギは頷きながらも、観客席の奥を想像する。

 ――来るはずがない。

 頭ではそう思っている。けれど心のどこかで、あの男の姿を探してしまう。

 握ったマイクがわずかに震えた。

 そして、スポットライトが彼の背中を押し出した。


***

 乱闘はすでに泥沼だった。

 拳と怒声が飛び交い、夜の路地裏に血と汗の匂いが充満する。

 タカセは相手の腕を払って体勢を崩し、そのまま地面に押し倒した。

 馬乗りになり、拳を振り上げる。

 焦りで呼吸は荒く、視界は赤くにじんでいた。

(……早く終わらせねぇと、間に合わない)

 頭の片隅に、約束の声がよみがえる。

『……絶対、来てよ』

 その言葉が、さらに拳に力を込めさせた。

 ――その時だった。

 香水の匂いと共に視線の端に、不意に影が揺れる。

 香水の匂いと共に、視界の端で影が揺れる。

 路地裏の先、街灯の下に立つ女。

 場違いなほど鮮やかな口紅。男の腕を取られながらも、こちらを真っ直ぐ見ていた。

 母親だった。

 隣のスーツ姿の男が軽く笑いながら言う。

「……なに、知り合い?」

 母の隣にいた男が、軽く笑いながら尋ねた。

 一拍の沈黙。

 母は眉一つ動かさず、ただ短く答える。

「……知らない」

 世界がわずかに軋んだ。

 耳鳴りのようなざわめきが、頭の中で膨らんでいく。

 胸の奥からせり上がるのは、言葉にならない黒い衝動。

(……ああ、そうか)

 視界の端で、馬乗りになっている男の喉がごくりと動いた。

 その動きに合わせるように、タカセの拳に力がこもる。

 止める理由も、躊躇もなかった。

 ――もう、どうでもいい。



 拳が振り下ろされる直前。

「――タカセ」

 背後から鋭い声が飛んだ。

 肩を、がし、と強く掴まれる。

 振り返ると、オーナーが立っていた。

 その目は笑っているのに、底が冷たい。

「お前、こんなとこで血を見る気か? 客も多い。目立ちすぎんだよ」

 低く吐き捨てるような声。

 タカセの拳は空中で止まったまま、わずかに震えていた。

 オーナーは視線を外さず、言葉を重ねる。

「……今夜はここまでにしとけ。行くとこ、あんだろ」

 それだけ告げると、タカセの肩を押し出すように叩いた。

 その一撃は叱責でも制止でもなく、背を向けさせるための合図だった。

***

 まるで泥水をすすったように、気分は最悪だった。

 タカセは大通りをひとり歩いていた。先ほどの溜飲は下がらず、ひどい顔つきでライブハウスに向かっていた。だが足取りは重い。 

(……そうだった。これは、取り返せない過去なんだ)

 実際、あの時もそうだった。オーナーに止められ、ひどい気分のまま会場へ向かった――その記憶がよみがえる。

 そして今、目を覚ませば、もう若くはない。ただの老人。選んできた過去の成れの果て。

 ポケットの中で拳を握る。

 ライブ会場に向かったところで、何になる。

 意味なんてない。

 結局、裏の世界から足を洗ったところで――残ったのは、何十年も孤独にドブのように時間を捨てた人生。

 償いのように寄付を繰り返した。孤児院や施設に金をばらまいた。

 だがそれも、過去の自分を救う疑似体験にすぎなかった。

(……俺は、いったい何をしてきたんだ)

 むしろ、このまま裏の世界に沈んでいた方が、まだ楽だったのではないか。

 そんな黒い思考が頭を覆い尽くしかけた時――

「……忘れないで」

 かすれるような声が響いた。

 誰のものでもない、けれど確かに耳に届く。

「外で、待ってる人がいる。……ここに留まったら、悔いが残るよ」

 重なるように、もうひとつの声が胸を震わせる。

 足が止まった。

 視界が揺らぎ、路地の光景がにじんでいく。

(……そうだ。伝えなきゃいけないことが、あったんだ)

 拳を開いた。

 深く息を吐き、ゆっくりと顔を上げる。

 夜のざわめきの向こう、音楽と歓声が確かに聞こえていた。

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