日めくりカレンダー
ある日、母親が急にいなくなった。
その時の細かいことは、ほとんど覚えていない。けれど――母の日課だった日めくりカレンダーを、震える手で毎日めくっていたことだけは、鮮明に残っている。
食事は学校の給食と、台所に残されたわずかな食料。腐りかけのパンを食べて腹を壊した日もあった。けれど、カレンダーをめくるたび「もう一日だけ耐えれば、きっと」と言い聞かせた。
母親がもう一生帰ってこないのではないかと震える手でカレンダーをめくる。
明日には、明日には、明日には――きっと、帰ってくるだろうと。
そんな祈りのような、呪いのような行為を一か月ほど繰り返した時に、ようやく玄関が開いた。
漂うのは濃い化粧と香水、酒の混じった匂い。母は笑いもしなければ謝りもしなかった。ただ、いつものように靴を脱いで部屋に上がった。
それでも、タカセは心の底から安堵した。――やっと帰ってきた、と。
――だが、しばらくすると、また母は忽然と姿を消した。
***
中学生になると、年齢を偽って飲み屋の黒服として働きはじめた。
幸い、当時すでに背丈は大人に近く、疑う者はいなかった。
タカセの中で、母が「帰ってくるかもしれない」という祈りは、ゆっくりと「どうせまた消える」という諦めに変わっていった。
(腹は、壊したくないしな)
生きるのにはお金がいる。今のうちに稼げるだけ稼いでおきたかった。
お金があれば、まともな飯を食べられる。
自分のように放り出された奴らだって匿える。
大人に頼らなくても、やっていける。
「ねぇ、君ものすごく身長高いね」
閉店後の片付けをしていたとき、不意にキャストの女に声をかけられた。
次の瞬間、白い指がタカセの頬をなぞり、そのまま身体を押しつけてくる。
(……これは、迫られてる、ってことなんだろうか)
濃い香水と煙草の匂いが鼻を刺した。
母親と同じ匂い。吐き気に似た感覚が胸を満たす。
それでも女は顔を近づけ、唇が触れる寸前――
「キャストに手ぇ出すのも、キャストが手ぇ出すのも、ご法度だぞー」
軽い調子の声が響いた。
振り返れば、オーナーがカウンター越しにこちらを見ていた。
女は舌打ちをして、気まずそうにその場を離れていく。
タカセは、表情ひとつ変えずにその背中を見送った。
「危なかったな、中坊。止めなかった方が良かったか?」
オーナーが面白そうに笑う。
その言葉に、初めてタカセの顔がわずかに強張った。
「……気づいて……」
「お前みたいなガキは、よーく来んだよ」
オーナーはニヤつきながら煙草をくわえた。
「なぁ、中坊。お前、ここで黒服なんかやってる場合じゃねぇだろ」
「……どういう意味ですか」
「裏なら、もっと稼げる。お前の歳じゃ普通できねぇ額をな」
軽口のように言われ、タカセは肩をすくめる。
「冗談やめてくださいよ」
そう答えると、オーナーは「ま、今はな」と笑い飛ばした。
――その時は、ただの与太話に聞こえた。
***
飲み屋で働き始めて、もう随分と経った。
ほんの少し異質なこの世界で、タカセはいくつものことを覚えた。
酒の作り方、客のあしらい方、女の笑顔の裏にある本音。
そして煙草の味。
オーナーの勧誘は鬱陶しかったが、そこで得たものは確かに役立った。
うまく要領良く生きるためのスキル。
煙草は頭を冷静にさせ、人付き合いの道具にもなる。
そして何より――人との距離感の測り方。
踏み込みすぎず、踏み込まれすぎず。
それは彼にとって、唯一の「身を守る術」になった。
(……人との距離)
グラスに氷を落としながら、ふと母のことが頭をよぎる。
(……距離を置くって、悪いことじゃないよな)
***
数日後。
タカセは母に「家を出る」と告げた。
まるで、ちょっと飲み物を買いに行ってくるような調子で。
でも内心では、心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響いていた。
「――いいよ」
返ってきた声は、驚くほど軽かった。
あっけなく、何のためらいもない。
それと同時に、何かを期待していた自分の愚かさにも気付かされた。
知っていたはずなのに、期待した自信の浅ましさを。
胸の奥の何かが崩れた。
そんな感覚だけが、ひどく鮮明に残った。
***
「中坊、頭の回るやつは重宝されるぞ」
ある日の締め作業中、オーナーが肩を叩きながら、言った。その行為に
特別な温かさを感じることはなかった。
けれど――少なくとも、軽く突き放した母の手よりは、ずっと現実的だった。
気づけば、タカセはオーナーの紹介で裏の仕事を手伝うようになっていた。
最初は荷物を運ぶだけ。次は、少し危ない相手との橋渡し。
それが報酬に変わり、気づけば生活の一部になっていった。
(……人に期待しなけりゃ、楽なもんだ)
机を拭きながら、そう心の中で繰り返す。
タカセの「距離感」は、こうして裏稼業の匂いとともに固まっていった。
「つーかお前、結構ここ入り浸ってるけど大丈夫か? 学校とか」
不意に投げられた言葉に、タカセは思わず眉をひそめた。
そんなことを気にされると思っていなかったからだ。
その顔を見て、オーナーは静かに笑い、グラスを拭きながらもう一つ問いを投げる。
「彼女とかいんの?」
タカセは机を拭きながら、答えを渋った。
黙り込んでいると、オーナーが目を細めて口を開く。
「……いるんだな?お前、好きなやついたの知らなかったわ」
「――まぁ、いないですし」
タカセはわざとらしく気の抜けた声を出した。
けれど、オーナーは簡単には引き下がらない。
「じゃあなんで付き合ってんの?タイプだったとか?」
拭いていたグラスを棚に戻し、オーナーは片肘をついて見下ろす。
タカセはしばし視線を泳がせてから、面倒そうに答えた。
「……好きじゃなくてもいいから、付き合ってって言うから」
一瞬の沈黙。次の瞬間、オーナーは豪快に笑い声を上げた。
「お前なぁ……俺が言うことじゃねぇけど、お前の将来、心配だわー」
その笑いにタカセは肩をすくめた。
――心配されても、どうせ誰も本気では寄り添わない。
そんな冷めた思いが、喉を抜けていった。




