猫みたいな先輩
裏庭の隅で、乾いた音が響いた。
目に涙をにじませた女の子の掌がタカセの頬を打つ。
「最低……!」
吐き捨てるようにそう言って、彼女は走り去っていった。
いや、泣きたい方はこっちなんだが、とタカセは一人思いながらも彼女の背を見送った。
こういうのは、もう何度目かもわからない。
――好きじゃない。
そう伝えても、「それでもいい」と彼女たちが言うから、流れで付き合う。
けれど、最後には決まって同じ言葉を残して去っていく。
またか、と心の中で呟き、頬に残る熱を指先で押さえる。
「……追いかけなくていいのかよ」
不意に背後から声がした。
タカセが振り返ると、そこにはヤナギが立っていた。
「……見てたのかよ」
言い返す声に、苛立ちが少し混じる。見られたことが妙に気に障った。
「見てたんじゃねぇよ。たまたま。お前がいたから声かけようとしたら……なんか…始まったんだろ」
軽い調子でそう言いながら、ヤナギは手にしていた飲み物を差し出す。
「ほら」
無言のまま、それをタカセの頬に押し当てた。ひんやりした感触が、火照った皮膚に心地よく沁みる。
しばらく沈黙が落ちた。
タカセは目を細め、ぽつりと呟く。
「……お前、女だったら、すげぇいい女だな」
そう軽口を言って、自然な仕草でヤナギの肩に手を回す。
ヤナギは一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから淡々と返した。
「……あー……まぁな」
ゆっくりと肩からタカセの手をどける。
その動作に、タカセは思わず目を瞬かせる。いつものような同じ軽口が帰ってくると思ってた。
拒絶とも受容ともつかない距離感。
不思議な余韻が、二人のあいだに漂っていた。
***
バイト終わり、制服の上着を脱いで肩にかけ、夜道を歩いていた。
街灯の少ない裏通りで、タカセはふと足を止める。
暗がりの中、見知った顔があった。
「……ヤナギ?」
声をかけると、青年はゆっくり顔を上げた。
けれど、いつもの軽い笑みはそこになく、頬や腕に血が滲んでいる。
見るに堪えないほど、ぼろぼろの姿だった。
タカセは舌打ちして、近くの公園に足を向けた。
蛇口をひねり、水でタオルを濡らすと、そのままヤナギの前に戻る。
「……これで冷やして」
無造作に差し出されたタオルを受け取りながら、ヤナギは苦笑する。
「……あー、お前がモテる理由、なんかわかったわ」
「は?」
正直、柄にもなくイラついている時に突拍子もないことを言われ、ほんの少し怒気が漏れてしまう。
「聞かねぇの? なんも」
タカセは黙ったまま、少し目を逸らす。
「……聞いても言い訳だろ」
「気になってそうだし」
挑発するような声色に、タカセは息を吐いた。
「……」
「はは、お前って図星のとき黙るよな」
「うるせー」
やり取りの合間に、ヤナギはぽつりと漏らした。
「……母親がさ、ずいぶん弱い人間で」
「母親がやったのか?」
「いや、愛人の方」
「あー……」
「まぁ、そういうこと」
夜風が二人の間を吹き抜ける。しばらく沈黙が落ちたあと、タカセは無造作に言った。
「……うち、来る?」
ヤナギが目を瞬かせる。
「……え」
思わず零れた一言は、タカセ自身にも意外だった。
***
いつからだったか、近づかれるのが苦手になった。
ある程度の距離感、そしてほどほどの世話を焼く。
それを心がけていたら、ツレも増え、女に言い寄られる回数も増えた。
結構、真理なんじゃないかと思った。
――大体の人間は、そういうのが心地いいんだろう。
そう思っていたのに。
どういうわけか、いま目の前のこの猫みたいな先輩には、いつもより近づきすぎている自分がいる。
「家族は?」
ぼろぼろの身体で自分の部屋に転がり込んでいるヤナギが問う。
「俺、下宿勢だから」
努めて冷たく返したつもりなのに、言葉に力がこもらず、意味をなさない。
「女連れ込み放題じゃん」
そんなタカセの気持ちを知ってか知らずか、このぼろぼろな猫は空気の読めないことを言う。今はそんなことより、傷だらけの身体を癒すべきだろう。
「この前からその話ばっかだな」
「……そりゃ、彼女いたら気使うだろ」
「は?なんで」
柄にもなくイライラが収まらないタカセは、怒りの正体を見つけられないまま、不機嫌にヤナセに答える。
「こんなとこに俺が転がり込んだらしばらく連れ込めないだろって言ってるんだよ」
申し訳なさそうな声に、怒りはしぼんだ。
たしかに、人様の家に転がり込んで気にしないやつはあまりいないのかもしれない。
「……この前振られてたの見てただろ?」
少しでも穏やかに伝える。そんな努力もヤナギは突っぱねるように答える。
「お前はわからん。すぐ女を作るからな」
「……そんなこといって、ヤナギここまで来てるじゃん」
「……」
不毛な応酬を終わらせるように、タカセは言った。案の定ヤナセは返す言葉もなく、黙り込むと開き直ったかのように返した。
「……茶くらい、だせよ」
「はは、横柄なやつ」
カセは笑いながら湯を沸かし、茶を淹れた。
そして、ヤナギの傷の手当てをする。ガーゼを当てる手の下で、ヤナギの横顔は整いすぎていて、光の下で余計に際立って見えた。――さすがハーフだな、とどうでもいい感想が浮かぶ。
視線をキッチンに移したヤナギが言った。
「自炊してるの?」
「まぁ、それなりに」
「なんか作ってよ、後輩」
「うわー嫌な先輩」
最後のガーゼを貼り終えると、タカセは少し考えてから言った。
「……簡単なもんなら、いいよ」
「まじ?やった」
ベッドに寝転がったヤナギは、猫みたいに嬉しそうな笑顔を見せた。
その姿を眺めて、タカセの口から思わず冗談がこぼれる。
「そんなに、俺の手料理がうれしいわけ?」
軽口のつもりだった。
けれど、ヤナギの答えは意外だった。
「……うん、うれしい」
そう笑う顔が、やけにまぶしく見えた。
気づけば、タカセはその手をそっと握っていた。
瞬間、心臓が跳ねた。
しまった、と顔をしかめて手を放す。
タカセは今まで、付き合った彼女たちは好きにはなれなかったが、そういう空気のになれば、対応してきた。
例えば手を握ってほしそうだったら、手を握ってみたり、キスしてほしそうだったら、してみたり。
今の空気感がなぜかそれに似ていたため、咄嗟に身体が動いてしまった。
「……ごめん、つい癖で」
空気の流れに合わせただけ――いつもならそう言い訳できた。
だがこのときばかりは、言葉が出なかった。
つい癖でだと?
ふざけやがって。




