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煙のむこうに

 甲板からさらに奥へ、兆が敵を殴り倒しながら道を切り開いた。

 アサヒとニアはタカセを抱えるように支え、暗い船底の通路へと滑り込む。


 兆が鉄扉を蹴り開ける。中は工具やケーブルが散乱した保守室。天井のランプが揺れ、赤い非常灯が壁を染めていた。

 アサヒは急ぎタカセを床に寝かせる。血は止まっているが、肩口からまだ淡い幻光が脈打っていた。

「延命はできる。でも――」

 震える指で止血を整えながら、アサヒは奥歯を噛みしめる。

「……引き戻すには、中で“何か”を終わらせないと」

 兆は短く息を吐き、すぐに入り口へ戻った。

 外では金属を叩くような足音。次いで発煙弾が転がり込み、視界が一気に白で覆われる。

「……匂い、音、重さ」

 煙の中、兆は鼻を鳴らし、床の軋みで敵の位置を測った。

 腕が振るわれ、一人が壁に叩きつけられる。

「ニア!」

「やってる」

 ニアはすでに壁にスケッチを貼り付けていた。描かれた目がじんわり赤く光り、煙の向こうの敵影を映し出す。

「……左三人」

「わかった!」

 兆が突っ込み、拳で一気に弾き飛ばす。

 さらにニアは足元の床に素早く波紋を描いた。次の瞬間、そこに踏み込んだ敵の足が滑り、転んだ隙に兆が蹴り飛ばす。

 アサヒは背後で必死にタカセに自身の石の力を送り続ける。

「……お願い、戻ってきてください」

 その声は煙と怒号にかき消されながらも、タカセの耳に確かに届いているかのようだった。


***

「あ、あれうちの学校のやつじゃね?」


 友達数人と連れ立ち、裏通りの薄暗い路地に腰を下ろしているとき、誰かがつぶやいた。 タカセは壁にもたれ、口元に煙草をくわえていた。煙が湿った夜気に溶ける。

 タカセはただでさえ切れ長な目をさらに細める。

 街灯の下で揉み合いになっている人影があった。

 ギターケースを背負った青年が、数人の男に絡まれている。

「知ってる知ってる。あの先輩、ハーフなんだろ」

「あー、なんだっけ。キコクシジョ?」

「おい、男でも帰国子女っていうのか? 帰国子男じゃねーの?」

「はは、馬鹿だろ」

 軽口が飛び交う中、タカセは無言で煙草を摘み取り、アスファルトに押し付けて消した。

「おい、タカセ?」

「あー、気にすんな」

 そう一言だけ残すと、タカセは静かに歩き出した。

 酔っ払いの罵声と靴音が響く路地の真ん中で、揉み合う男の一人を肩で押し飛ばす。

 続けざまに相手の腕を掴み、背負い投げのように地面へ叩きつけた。

「……っ!」

 呻き声が夜に溶ける。残った連中が一瞬たじろぐ。

 振り返った青年――ヤナギの目が、タカセをとらえていた。

 汗ばんだ額にかかる明るい髪が、街灯の光をはじく。

 その顔には驚きと、かすかな笑みが入り混じっていた。


***

 いつもの屋上。灰色のフェンスの隅に腰を下ろし、タカセは煙草を弄んでいた。昨夜の出来事が頭をかすめる。

 タカセにとって、それは別段意味などないことだった。

 ただ困ってそうだったから。あの界隈で顔を利かせておけ、と言われたことを思い出しただけ。けれど、結局そんなものも、どうでもよかった。

 煙を吐き出したとき、ドアの蝶番が軋む音がした。

「いた」

 明るい声に顔を上げると、昨日の青年――ヤナギが立っていた。

 ギターケースはなく、制服のポケットに手を突っ込んだまま近づいてくる。

「……帰国子女の人」

「失礼な覚え方。まぁいいや」

 ヤナギは肩をすくめると、手に持っていた小さな袋を差し出した。

 中にはジュースの缶と駄菓子がいくつか入っている。

「この前のお礼」

「律儀だね。ちゃらそうな見た目して」

「お前の方がチャラいだろ」

 思わずタカセは笑う。軽口を投げ返されるのが妙に新鮮だった。

「……てか、どうやってここにいるって知ったの」

「お前の友達に聞いた」

 ヤナギの答えに、タカセは一瞬絶句した。

 脳裏に、人相の悪い仲間たちに平然と声をかけるヤナギの姿が浮かぶ。

「……度胸あんね」

 タカセはそう呟き、煙を吐いた。

 ヤナギはにやりと笑って隣に腰を下ろす。

 屋上の風がふたりの間を柔らかく吹き抜けた。

 ――そこから、二人の関係が始まった。


***


「え、お前年下なの?」


 昼下がりの屋上。風に散る煙の匂いの中、タカセはフェンスに背をもたれて煙草を回していた。

 目の前に立つヤナギが、驚いたように声を上げる。

 唐突な言葉に、タカセは煙を吐きながら肩をすくめた。

「そうデス。センパイ」

 わざとらしく声色だけ茶化す。表情を崩さないタカセに、ヤナギは眉をひそめる。

 ――ハーフってのは、どんな顔をしても絵になるもんだな。

 関係ない感想が頭をよぎる。

「……老けてんな。同い年か、年上かと思ってた」

「年上だと思ったなら、敬語使いなよ」

「いや、そっちこそだろ」

 口の端が同時に上がる。軽口の応酬に、風がやけに心地よい。

 タカセは細く笑い、煙草を持ち替えた。

「ヤナギには使わないよ。タバコも吸えないお子様だし」

「は?」

 からかうように、タカセは自分の咥えていた煙草を差し出した。

「……吸ってみる?」

 煙の匂いが押し寄せる。ヤナギは一瞬だけ息を詰め、目を瞬かせた。

 だがすぐに真っ直ぐな声で返す。

「……吸わねぇよ。喉痛めるし」

 あれからヤナギが屋上に顔を出すようになって知ったこと――

 バンドのボーカルをやっていること。

 この前も、ライブ帰りに絡まれたこと。

 喉元で光る石が、その才能を示すものだということ。

 けれど石なんか関係ないくらいに、ただ歌うのが好きなやつだということ。

「……いい子なんだね」

 軽口のつもりで言うと、ヤナギは眉を寄せて睨み返す。

「つか、お前だって吸わせる気ないくせに言うなよ。むかつく」

 その一言に、タカセは思わず目を丸くした。

 ほんの少し――くだらない煙で、この声が損なわれるのは惜しいと思っていたから。

 図星を突かれることに慣れていない。けれど、不思議と嫌な気はしなかった。

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