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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十三

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潮風の匂い

「いつか、好きなものも嫌いなものも語れるようになればいいな」


 その言葉は呪いのように胸に残った。

 乱反射する太陽の逆光に、彼の顔はよく見えない。

 ただ、明るい髪の毛の先が光をはじいていた。

 焼けるような光に、目を細める。

 次の瞬間、ふいに世界が暗くなった。

「……目、焼けるぜ」

 自分の両目に、彼の手がそっと置かれていた。

 澄んだ声は、揺らぐことなく真っ直ぐに届く。

「手、つめた。生きてる?」

 自分の声が震えていないか、不安になる。

 けれど思ったより上手く紡げたらしい。

「俺、ヒエショーだから」

 気楽そうに答える調子に、少しだけ救われた。

「は、似合わないね」

 彼の手に、自分の手を重ねる。

 びくりと跳ねる感触。

 その一瞬を、永遠に閉じ込めたくなる。

 ――だが数日後、彼は忽然と姿を消した。



***

 重い波の音が、船底をゆっくり揺らす。

 港を離れて数時間。甲板に出ると、潮風と油の匂いが混ざり合っていた。

 アサヒは、胸元の鞄を押さえながら小さく息を吐いた。

 薬や医療具を詰め込んできたせいで肩が痛む。隣ではニアが落書き帳を膝に広げ、じっと何かを描いている。揺れる船上でも一度も線が乱れない。

「そんなの描いて酔わねぇのか」

 兆が背伸びしながら呆れたように声をかける。

 ニアは返事をせず、ただ黙って鉛筆を走らせた。波に照らされる白い光が、その横顔を淡く照らす。

 そして、少し離れた場所に依頼主――タカセがいた。

 白髪の中に元の黒髪が見える短い髪、背筋はまだしゃんとしているが、その手にはかすかな震えがある。

 ゆったりした仕草でポケットから煙草を取り出すが、火をつける前に兆が横から制した。

「ここ、禁煙っすよ」

「……案外、真面目なんだな」

 タカセは笑った。その口元は年齢に似つかわしくない色気を帯びていた。

 その雰囲気に、アサヒは一瞬たじろぐ。老人と言うには若さが残りすぎている。けれど病の影は隠せず、目の下にうっすらとした影が見えた。

「……わざわざ、こんな遠くまで」

 アサヒが恐る恐る声をかけると、タカセは空を見上げて答える。

「そりゃあ、俺もただのミーハーってわけさ」

 アサヒたちの目の前にいる男は調査隊に多額の寄付金をするとある実業家だった。

 だが、別にそれを盾にしているわけではなく、この態度はもともとの気質のようだった。

 タカセが静かに紙を撫でた。

 ーーLeo(レオ)追悼式。


「……そんなふうには見えません」

 それが正直な感想だった。

 歌手のレオは最近亡くなった歌手だった。アサヒでさえも新聞や雑誌で見た記憶があった。甘いマスクと甘い声で死ぬ直前まで年齢を感じさせない人だった。

 タカセと話してみて、アサヒはまったくもってそういった類のものにはまり込みそうな人間には見えなかった。


「よく言われる」

 波が大きく揺れ、船体が軋む。

 その瞬間でもタカセは落ち着いていて、むしろ楽しんでいるように見えた。 

「……死ぬ前に、見届けたい」

 彼がぽつりと漏らした言葉に、アサヒは言葉を失った。

 ただ、隣の兆が小さく肩をすくめ、短く答えた。

「……それが、俺たちの仕事すかね」

 海の向こうには、まだ遠い港と告別式の会場が待っている。


***

 船の揺れに合わせて、アサヒは車いすの取っ手をしっかり握り直した。

 タカセは姿勢を崩すことなく、ただ前を見ている。寄港地を出てしばらく、売店に立ち寄ろうとアサヒが声をかけると、彼も静かに頷いた。

 売店の奥で流れるラジオから、ざらついた音声が響いてきた。

「――世界的歌手、レオ氏の訃報から一週間。各地で追悼式が準備されています。本日は代表曲『Moonlit Dive』を――」

イントロがかかると、アサヒは足を止めた。

 タカセの白髪混じりの横顔にわずかに影が差す。表情はほとんど変わらないが、煙草を探す指先がほんの少し強張っていた。

「……好きなんですね、本当に」

「告別式に行きたいくらいだからな」

 タカセは淡く笑い、肩をすくめる。

 その場に長居することもなく、アサヒは水を購入し、二人で廊下に戻る。

 甲板へとつづく通路の先で、怒声が響いた。

「てめぇ、俺の財布盗っただろ!」

「知らねぇよ!」

 狭い空間で乗客同士が掴み合っている。野次馬が集まり、空気がざわついていた。

 思わず車いすを止めたアサヒに、タカセが視線を横に滑らせる。

「……行ってこい」

 アサヒは頷き、人混みを抜けて二人の間に割って入った。

「落ち着いてください、怪我人が出ます!」

 殴りかかろうとする腕を抑え、相手の手の甲に赤い擦り傷を見つける。

「出血してますね、まず処置を」

 すぐにカバンから簡易キットを取り出し、テーピングで止血する。

 その横で兆が人ごみを押しのけ、財布を拾い上げた。

「……これだろ」

 突き出された財布に男が目を丸くする。

「なんでわかった」

 兆は鼻を鳴らし、無愛想に答えた。

「革の匂いと、柑橘の手汗。持ち主はお前だ」

 呆気にとられる人々を置き去りに、アサヒは深くため息を吐いた。ようやく騒ぎが収まる。

 だがその瞬間、ふと背筋を冷たいものが撫でた。

 群衆の中、ただ一人だけ――表情を動かさず、視線だけを強く残していく影。

 兆が低く呟く。

「……匂うな」

 アサヒの胸に緊張が走った。船の上の空気が、一気に重くなるのを感じた。


***

 ほんの少し遠巻きから、タカセはアサヒ達の様子を見ていた。

 出てくるはじめの感想は若いな、だった。

 しかし、ふと思い直す。

 何か自分の若い時のことを思い出し、呟いた。


「……いや違うな」

 その呟きに返ってくるのはあまりにも無骨な声だった。

 甲板の影から、数人の男たちが歩み出る。黒ずんだ革ジャンに、かつてと変わらぬ粗野な匂い。

「……久しぶりだな、タカセ」

 にやりと笑った顔に、過去の夜の街の残滓がちらつく。

「死んだと思ってたぜ。表舞台に出てきやがって、寄付だの慈善家だの……おかげで俺たちは動きづれぇんだよ」

 数メートル先のアサヒが息をのむ。タカセは一切表情を変えない。

 ただ、深く吐息を吐きながら答える。

「生きてりゃ変わるもんさ」

 その声音に怒りも誇りもなく、ただ静かな諦観が混じっていた。

 沈黙を破ったのは兆だった。

「……なるほどな。要するに、まとめて倒せばいいんだろ」

 タカセの前に出ると同時に、船体を震わせるような衝撃音が響く。

 鋭い拳が一閃し、敵の一人が甲板に叩き伏せられる。

 タカセはその光景を見ながら、ほんの少し笑みを浮かべる。

「……こりゃあ、すごい」

 兆の拳が敵を次々となぎ倒していく。

 だが、その影を縫うように背後から一人が車椅子へと迫った。

「……!」

 アサヒが振り返るより早く――

 カン、と鈍い音が響く。

 タカセの杖が敵の膝を正確に打ち砕いていた。

「危なっ……!」

 思わず声を上げるアサヒ。

 敵が呻き声をあげて倒れ込むのと同時に、タカセは車椅子の車輪を強引に回転させる。

 腰に忍ばせていた小型の拳銃を抜きざま、甲板に影を落とした別の敵の肩を撃ち抜いた。

 銃声が一発。

 血の匂いが潮風に混ざる。

 アサヒが目を見開く。

「……あー」

 タカセは乾いた笑みを浮かべる。

「ちょっと、老体にはきついな」

 銃声が潮風に溶けた瞬間、敵は肩を押さえて倒れ込んだ。

 タカセは無表情のまま銃口を下げる。だが次の瞬間、ふ、と肩が揺れる。

 短い咳。胸を押さえ、息が詰まったように目を細める。

「タカセさん!」

 アサヒが慌てて駆け寄ろうとするのを、タカセは片手で制した。

「……大丈夫だ。ただの……年寄りの冷や水ってやつさ」

 苦笑交じりにそう言った声は、どこか掠れていた。



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