剣の柄を握る
いつものように、焔羅は紫の部屋に入り浸っていた。
部屋の隅に置かれた時計をちらちら見ながら、どこか落ち着かない。
「……ちょーっと、やりすぎちゃったかな」
まだ熱の残る紫の額に乗せられたタオルを取り換えながら、焔羅はぼそりとつぶやいた。
紫は布団の中で目を細め、淡々と返す。
「……あの二人で行った任務の後始末か」
「そーそー。キサラギとレイ君に行かせてるんだよねぇ」
紫は無表情のまま、言葉を続ける。
「……幻影を見せるだけ。ほとんど力もない。死にはしない」
「……紫ちゃんって、そういうところあるよねぇ。ほんとドラーイ」
軽口を叩く焔羅。紫はほんの少し顔をしかめながらもその表情の奥にあるわずかな陰りを、見逃さなかった。
「……お前風に言ってやろうか」
「え? なに」
珍しくほんの少し悪い表情を見せる紫に視線が外せなかった。
「“おともだち”が心配か?」
「……腹立つ――」
焔羅は少しだけ乱暴に、だが確かに丁寧な手つきで、濡らしたタオルを紫の額に置いた。
ふっと息を吐き、ぼやくように言葉を足す。
「……まぁ、意固地なじじぃにならないようにしないとね、キサラギも」
***
――視界が揺らぎ、闇がほどけていく。
重苦しい幻影が消えた先には、現実の光景が広がっていた。
怪物の呻きが止み、肉塊となった兄の身体がぐずりと崩れ落ちる。
その残骸を前に、弟は声を上げて泣き崩れた。
レイはそっと寄り添い、肩に手を置く。
目を伏せたまま、静かな声で告げた。
「……最後まで、お前を守ろうとしていた」
弟は嗚咽の中で何度も頷き、震える指で崩れた兄の跡を掴む。
その姿に、レイはただ黙って寄り添い続けた。
一歩離れた場所で、キサラギはその光景を見ていた。
銃を下ろし、何も言わず、ただ無言で。
吐き捨てる言葉も皮肉もなく――彼の瞳には、かつて失ったものの残影が揺れていた。
***
夜風が冷たく、石畳の道を踏みしめる靴音だけが続いていた。
任務は終わった。だが、胸の奥に沈む重さは消えない。
沈黙を破ったのはキサラギだった。
ふと視線を逸らしながら、言葉を吐き出す。
「……ガキがやるもんじゃねぇ。こんなこと」
唐突に投げかけられた言葉に、レイは眉をひそめる。
「子供とか関係ない」
返ってきた声音は迷いがなく、真っ直ぐだった。
キサラギは短く舌打ちし、苛立ちを隠そうともせず吐き捨てる。
「お前は何の力も持たねぇ。何もできない」
言葉は鋭かったが、足取りはどこか重たい。
それでもレイは立ち止まらず、前を向いたまま答える。
「たしかに、なにも出来ないかもしれない」
歩調を崩さぬまま、剣の柄に触れる。
「――でも、一緒に剣の柄を握るよ」
その一言に、キサラギの肩がわずかに揺れた。
街灯の薄明かりに照らされた横顔は、感情を見せまいと硬く結ばれている。
脳裏に過るのは、もう誰もいない雑然としたあの部屋で、一人つぶやく幼いキサラギの姿。
『――どうして』
(……もし、あの時。俺が――)
そう思った瞬間、キサラギは小さく息を吐き、煙草を取り出した。
どうしようもない過去を何度も反芻してしまう自分への苛立ちを、煙に溶かすように。
「……クソガキが」
火を点けた煙が夜風に流れる。
レイは何も言わずに並んで歩き続けた。
二人の影は、闇の中でゆっくりと並び、伸びていった。
***
「……子供が、そんなことするもんじゃない」
羊皮紙や本が散乱した部屋の中で、彼は言った。
怒りではなかった。叱責でもなかった。
ただ、どうしようもない哀しみを押し殺した声音だった。
日は落ち、窓から光は差さず、部屋の中は薄闇に沈んでいる。
その顔ははっきり見えない。だが声だけが、重く残った。
幼いキサラギは唇を噛み、昼間の出来事を思い出す。
喉が焼けるような痛み。助からなかった人の呼吸。家族の絶望した顔。
そして、勇者の瞳の奥に深く沈む影。
必死に言葉を探し、掠れた声を吐き出した。
「……あんたを、救う人がいない」
勇者は何も答えなかった。
ただ、暗い部屋の中でキサラギに背を向ける。
雑然とした部屋の中にはたくさんのものがあふれているのに、そこにはまるで、勇者一人だけがぽつりと中央に立っているように見えた。
同じ空間にいるはずなのに、遠い。
伸ばすべき言葉も、差し出すべき手も見つけられず、ただ銃を握ることしかできなかった。
――半年後。
勇者は忽然と姿を消した。
残されたのは、硝煙の匂いと、何も守れなかったという痛みだけだった。




