見知らぬ誰かの女神様
ことり、と湯気の立つマグカップが机に置かれた。
「少しは身体に良いものでも飲まないとね」
クラリッサは静かにハーブティーを口に運ぶ。その仕草を、ヨシュアはただ黙って見つめていた。
「…自分は明日のような日を待ち望んでいました」
その言葉に、クラリッサの顔色はまるで揺れなかった。
「あなたは誤解されやすい人だ。あなたの本来のすごさに誰も気づいてない。気づいてるふりをしているだけだ。それを、ようやく明日、皆に知らしめられる。自分はここまで、あなたのそばで支えられて、本当に……」
言葉が熱を帯びていく。マグカップを握るヨシュアの手が、かすかに震えていた。しかしクラリッサはその熱量とは反対にあまりにも静かだった。
「…あなたは私から、離れた方がいい」
その言葉はヨシュアが世界で一番聞きたくない言葉だった。マグカップを持つ手が震える。中身がこぼれるのではないかと思うくらい激しく。
「…なぜそんな、面白くない冗談をおっしゃるのですか」
声は乾いていた。彼は、それを冗談にしたかった。だがそれは叶わなかった。
「今まで、私は本当にあなたに助けられた。一人じゃ運べないものや大きなものも作らせてもらった。けどね、ヨシュア、いくらあなたが私の近くにいても」
クラリッサはゆっくりと視線を向けた。
「私の夢は、作品は、あなたのものにならない」
淡々と語られる言葉は、刃のように正しく、冷たい。それが彼女の常だった。自分の言葉が、相手の胸にどう刺さるかなんて考えていない。いや――たぶん、考えても、変わらないのだろう。
「違う…自分はただ、強くて、なにものにも染まらない、気高い、かっこいいあなたの、力に…なりたくて」
震える手のヨシュアにクラリッサは静かに目を細め、広角を緩く上げ、微笑んだ。その美しさにヨシュアは息をのみ、みとれた。そして、そのまま囁くように言った。
「あなたは一体、誰の話をしているの?」
部屋の静けさが、言葉の重さを際立たせた。
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騒がしい街の喧騒とは対照的に、紫はただ一人、静かに、淡々とクラリッサを遠くの陰から見守っていた。
ここ数日、彼女を見張っていて思ったのは――クラリッサは、何か危ういものの縁に立たされている、ということだった。
周囲の印象とは裏腹に、彼女は次第に“パッケージ化”されていた。称賛と期待の視線を一身に浴びているように見えて、その実――それは“村八分”と何も変わらない孤独の形だった。
その孤独がクラリッサを奇行に走らせるのか。それとも、周囲の狂気に飲まれる前触れか。紫には、まだ判断がつかなかった。紫の不安は作業場に待ち構えるヨシュアとそれを誘うクラリッサがさらに助長させた。
紫は隣の部屋の点検口をけ破り、小柄の身体をねじ込んだ。そして隣の部屋の天井まで静かに這っていく。二人の会話は一切、聞き取れない。すると、ヨシュアが一瞬うなだれるように顔を伏せ、何かを口に入れ、のどを鳴らした。狂ったように身もだえはじめ、マグカップは机から、落ちる。そして次第にヨシュアの体は崩れ、人じゃない何かになった。
紫は隣の部屋の点検口を、ためらいなく蹴り破った。 小柄な体をねじ込み、音もなく天井裏を這って進む。そして隣の作業場の天井にたどり着く。声は聞き取れない。だが、動きだけは見える。ヨシュアが一瞬、うなだれるように顔を伏せた。何かを口に入れ、喉を鳴らす。
次の瞬間――
その体が狂ったように震え、マグカップが机から転げ落ちた。
そして、彼の輪郭が崩れ始めた。それはもはや、人間のかたちではなかった。