呪いのループ
もういつの記憶だったかわからない。
ただ心臓の鼓動だけが今もなお近くに聞こえる。
闇の中。
小さな弟を必死に抱き寄せ、庇うように覆いかぶさった。
押し寄せる白衣の影――研究員たちが無理やり引き剥がし、腕を押さえつける。
突き立てられる注射器。冷たい金属の光が闇に瞬くたび、兄の喉から叫びが迸った。
「やめろ! 弟はやめろ!」
声は掠れ、途切れ、ノイズのように揺らいで反響する。
響くたびに、場面はまた同じ光景に巻き戻される。
何度も、何度も。
兄の怒声と、弟を庇おうとする必死の腕。
その断片だけが、呪いのように繰り返されていた。
再び視界にノイズがかかる。
闇の出口へ、弟の小さな体を突き飛ばす兄の姿。
血走った瞳で必死に叫ぶ。
「……逃げろ! 二度と戻ってくんな!」
その声が、空間を震わせるように響いた。
だが次の瞬間、背後から伸びた複数の腕に押さえつけられる。
薬液を吸い上げる鈍い音――。
針が肉を裂き、薬が流れ込む。
「――ッ!」
兄の体が激しく痙攣し、目の光がみるみる虚ろに沈んでいく。
ぷつりと意識が途切れたあと、あたりはただの暗闇だった。
そんな冷たい空間の中、少年は何度も言葉を紡ぐ。
「……飯、食ったか?」
「夜は……ちゃんと寝ろよ」
「暗いとこは……嫌だろ……」
誰もいない虚空に向かって、優しい響きが何度も投げかけられる。
返事はない。けれど兄は、そこに弟がいるかのように繰り返す。
その声は少しずつ歪み、ざらつき、同じ言葉がノイズのように乱反射する。
『飯……食ったか』『食ったか……』『……暗い……暗いとこは』
反響はやがて悲鳴に変わり、呻きとなる。
「……弟を……助けなきゃ」
かすれた声とともに、怪物の咆哮が空間を裂いた。
光と闇がぶつかり合い、音がねじ切れる。
そして――再び。
「やめろ! 弟はやめろ!」
最初の場面が強制的にフラッシュバックする。
幻影は壊れかけの映像のようにガクガクと崩れ、断片が空間に散り始めた。
地獄のような記憶を何回も繰り返しながら。
同じ叫びと注射器の光景が繰り返され、もう自分が何をしているかもわからない。
――その時だった。
耳をつんざく咆哮の中に、別の声が割り込む。
強く、真っ直ぐに響く声。
「――もうやめろ」
闇を裂くように、ひと筋の光が差し込む。
その光の中から、剣を構えた影が歩み出た。
レイの足音が空間を震わせ、歪んだ映像を踏み砕いていく。
「……もう、十分だから」
ノイズのように繰り返されていた兄の声が、一瞬途切れた。
虚ろな眼窩が、レイを見た。
怪物の奥に潜む“兄”の残滓が、かすかに揺らいだ。
レイは剣を強く握りしめる。
***
キサラギはひどい頭痛の中、暗闇で目を覚ました。
どこまでも沈んでいくような暗さの中で、キサラギはひとり立っていた。
足元に輪郭の定まらない影が揺らめき、やがて人の形を結ぶ。
浮かび上がったのは――レイの姿だった。
「……」
その影はしばし黙してこちらを見返し、次の瞬間には幼い少年へと変わった。
頬にまだ幼さを残す顔立ち。
それは、かつての自分自身。
キサラギの胸に、冷たいものが走る。
(……あぁ)
レイとまともに対峙したくない理由。まるであの幼い自分に似た少年。
まるで何の力も持たないくせに孤独を押し殺し、歯を食いしばって立ち向かおうとする、その在り方が。
幻影の向こうから、誰かの声が響いた。
振り返るまでもなく、それがレイの声だとわかる。
闇の中で戦い続ける少年の叫びが、確かに届いていた。
キサラギは瞼を伏せ、短く息を吐いた。
「――クソガキが」
***
闇を裂く咆哮。
怪物はかつて人であったものの影を残しながら、肉塊のような姿で暴れ狂っていた。
無数の腕のような影がうねり、レイの身体を絡め取ろうと迫る。
「くっ……!」
剣を振るい、闇を断ち切る。だが切っても切っても、次々と溢れてくる。
押し潰されるような圧力に、膝が軋んだ。
――その時。
銃口が閃き、轟音と共に迫りくる影を撃ち砕く。
硝煙と共に立ち現れたその姿に、レイは驚き、そして息を整えた。
「……キサラギ」
闇の中に現れたのは、キサラギだった。
「……さっさと終わらせるぞ」
吐き捨てるような声。
だが次の瞬間、銃と剣が同じ方向を向く。
光の剣閃と銃声が交互に重なり、怪物を追い詰めていく。
怪物が絶叫し、空間全体が軋む。
幻影の中に散らばる記憶の断片が崩れ落ちていく。
レイは深く息を吸い、震える剣を強く握り直した。
胸の奥に芽生えた決意が、全てを貫く刃へと変わっていく。
「……弟はちゃんと無事だから、安心して」
踏み込み、一閃。
剣が振り下ろされ、光が怪物を真っ二つに裂いた。
その時、怪物の目から、光が零れ落ちる。
「……よか……た……よかっ……た……」
断末魔の咆哮は途絶え、闇の空間に静寂が訪れる。
裂けた怪物の身体はゆっくりと崩れ落ち、影の粒となって宙に散った。
レイは肩で荒い息をしながら、その最後の声を聞き届ける。
剣を下ろした手が微かに震えていた。
隣に立つキサラギは、銃口を下げたまま、黙ってその光景を見ていた。
罵倒も皮肉も口にせず、ただ一瞬――ほんの一瞬だけ、その背を肯定するように視線を向けていた。




