忘却の呪い
畳の匂い、夕方の光が斜めに差し込む空間。幼い自分と、隣に立つアサヒの姿。
その周りを取り囲むように、同年代の子どもたちがいる。
彼らの口から飛んだ言葉は、棘のように鋭かった。
「お前は、別にこんなことしなくてもいいだろ。石つきなんだし」
「つーか、石つきのくせに下手くそじゃん」
あざける声。
アサヒは一瞬きょとんとした顔をして――そのまま、能天気に笑った。
まるで何のダメージもないように。
そんなアサヒにいらだった表情を見せた一人の少年がアサヒの胸倉をつかんだ。
隣にいたレイの胸に、鋭いものが走った。
代わりに、一歩前へ。
「……やめろ」
低く、冷静な声。
幼い体が自然に構えをとり、相手の腕を取る。
合気道の動きで、嫌味を言った子を地面に押さえ込み、締め上げた。
「いたたたた!!!」
「痛くねぇよ。お前らみたいに下手じゃないから」
淡々と告げる声に、押さえつけられた子は泣き出す。
その泣き声に、今度はアサヒが慌てたように駆け寄った。
「だ、大丈夫か? ごめん!」
心配そうに謝る声。
その姿に、レイはふっと目を細める。
――そして、翌日。
道場の外。
昨日泣かされたはずの子どもたちと、アサヒは笑いながら遊んでいた。
その光景を遠くから眺め、幼いレイは胸の奥にちくりとした痛みを覚えた。
自分とアサヒの“違い”が、そこにははっきりとあった。
***
夜風が涼しく頬を撫でる。
稽古の帰り道、父と二人で並んで歩いていた。
静かな道に、虫の声と草の匂いが満ちている。
「……アサヒらしいなぁ」
父がふっと笑った。眉を下げ、どこか安心したように。
レイは視線を落とし、靴先を見つめながら小さく口を開く。
「……俺は、アサヒがあのままでいられるように」
言葉を言い切る前に、父がやさしく遮った。
「だめだよ、レイ」
穏やかな声。叱るのでも、否定するのでもなく、ただ包むような響き。
「僕はアサヒにも、レイにも、自分らしくいてほしい。君はそんなに急いで大人になる必要はない」
レイは口をつぐむ。
足元の石を蹴りながら、わずかに顔をしかめた。
父は夜空を仰ぐようにして、少しだけ言葉を探す。
「……大人になるとね、子供の時に理解していたことを、わからなくなってしまうんだ」
「逆じゃ、なくて?」
レイが小さく問い返す。
父はゆっくり首を振った。
「確かに、知識自体は増えるかもしれない。
でもその知識も、根底は僕らが幼いころから抱いてきた“何か”を守るためにある。
人はそれを忘れてしまうんだ。……いや、無自覚になってしまうっていうのが正しいのかな」
遠くで蛙の声が響いた。
レイは静かに聞いていた。父から目をそらさずに。
その視線の真っ直ぐさに、父はほんの少しだけ危うさを感じる。
「人って難しいね。……そういう呪いにかかってるみたいだ」
短く吐息をもらし、それから微笑んだ。
「……きっとアサヒは、あの石の力を見て、いろんな人に頼られるようになるだろう。
でも大人になると、子供の時みたいにわかりやすい関係ばかりじゃない。
無意識な悪意や、無自覚の攻撃にさらされることもある。
そんな時、レイがアサヒを助けてくれるかもしれないね。しっかりしてるから」
レイは言葉を飲み込んだ。
その表情に影が差しかけたとき、父は柔らかく続けた。
「でもね、レイ。君が大人になって、逆に同じようなことに出会った時――きっとアサヒが、子供の時のままの無邪気さで君を引き戻してくれる。
そうやって二人で、呪いを解きあって生きてほしいな」
夜風が二人の間を吹き抜けた。
レイは言葉を返さず、ただ父の横顔をじっと見つめていた。
その声色は、祈りのようでもあり、贖罪のようでもあり――期待でありながら、期待しないよう努めている響きでもあった。
暗闇に沈む父の顔はよく見えない。
けれどその眼差しは、目の前ではなく、もっと遠い闇の奥を見つめているように思えた。
***
闇。
何もないはずの空間に、レイはひとり立っていた。
ついさっきまで――道場や父の声が、確かにそこにあった。
だが今は、記憶の断片が霧のように遠ざかり、残されたのは虚ろな暗闇だけだった。
(……幻影を見せられていたのか)
その時だった。
どこからか、微かな声が重なり始める。
『……弟を……助けなきゃ……』
『……やめろ……弟は……やめろ……』
掠れた叫びが、繰り返し響き渡る。
耳ではなく、頭蓋の内側に直接叩き込まれるように。
レイが顔を上げた瞬間――。
「……声がするね」
暗闇の中に、アサヒが現れていた。
光を背負うように立ち、穏やかな瞳でレイを見つめている。
「アサヒ……」
思わず名を呼ぶ。
弟は小さく頷き、もう一度口を開いた。
「レイ、大丈夫。大丈夫だよ」
その声音は、幼い頃と同じ。
何度も自分を救ってきた能天気な響きだった。
レイは短く息を吐き、かすかに笑う。
「……その言葉、そっくりそのまま返すよ」
胸の奥で、静かな決意が芽生えた。
怯えでも、後悔でもなく――ただ前に進む力として。
声の方へ、歩を進める。
暗闇が裂ける。そこには怪物の姿があった。
人だった痕跡をかすかに残しながらも、今はただの肉塊。
虚ろな眼窩から、掠れた声だけを繰り返している。
「……弟を……助けなきゃ……」
叫びと共に、暴走する力が迸った。
ノイズのように光が乱れ、闇の空間を歪めていく。
レイは剣を構え、まっすぐにその怪物へ歩み出した。
***
――パンッ!
人々の期待に満ちる空気を、乾いた音が裂いた。
勇者の光のこもった掌は、患者の胸に届くことはなかった。
立ちのぼる硝煙の根元には、銃を構えたキサラギの姿があった。
患者にすがっていた家族が、絶望に顔を歪めて叫ぶ。
その声を背に、勇者はゆっくりと振り返った。
怒号も罵声もない。
ただ静かに、こちらを見た。
キサラギは、このまま勇者に力をつかわせたら、なにかいけない気がした。




