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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十二章 前勇者ととある少年のお話
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影の記憶

「……悪い人ですね」


 冷ややかな声が、静かな執務室に落ちた。

 書類の山を横目に、焔羅は椅子にだらしなく身を預け、口元だけで笑う。

「えー?なにが?」

 飄々と返す声に、光はわずかにため息を吐いた。

「二人が向かったあの施設……幻影系の実験が行われていたはずです。制圧任務、焔羅さんの割り振りでしたよね」

 机に積まれた記録に目を落としながらも、その声音には揺らぎがない。

「おお、よく覚えてんな」

「僕、記憶力はいいので」

 淡々と告げる光の冷めた視線に、焔羅は肩をすくめた。

「だ、大丈夫だって。もう残り香みたいなもんしか残ってないだろ?せいぜい、ちょっと嫌な夢見せてくるくらいだって」

 軽い調子で言いながらも、光の鋭い目に射抜かれ、わずかに腰が引ける。

「それに――キサラギだって悪い癖、直してもらわないと。下が育たねぇよ」

 言い終えてから、茶化すように笑う。

「ね?わかるでしょ?」

 焔羅の試すような声色に、光は静かに答える。


「……まぁ、たしかに」



***


 石造りの廊下は、地下へ向かうにつれて湿気を増していった。

 冷たい空気が肌を撫で、足音だけが乾いた反響を返す。

 先を歩く男は、一言も発しない。

 ただ、迷いのない早足で暗がりを突き進む。

 幼いキサラギは、その背を黙って追った。

 ――勇者。

 そう呼ばれる男の世話係になって数日。

 わかったことは、一つ。

 この男には、生活の匂いがない。

 部屋は散らかり放題で、自分からは片づけもしない。

 何もなければ、一人で延々と書き物に没頭し、飯も言われなければ取らない。

 英雄どころか、覇気すら感じられない。

(……こんなのが、本当に)

 疑念が募り、言葉が口をついた。

「……あんたは――」

 問いかけの続きを紡ぐ前に、男がちらりと振り返った。

 怒っているわけでも、問い返すわけでもない。

 ただ、無表情のまま視線を寄越しただけ。

 それなのに、キサラギの喉は詰まり、声が止まった。

 張り詰めた空気が、言葉を凍らせる。

 男はまた前を向き、淡々と歩きながら口を開いた。

「……なんで助かったのに、わざわざこんなとこに来た?」

 ――“助けた”とは言わない。

 ただ“助かった”とだけ言う。

 キサラギは一拍置いて答えた。

「……あんなにいろんなものを見た。知らないで生きていられるわけがない」

 勇者はその言葉に、短く吐息を落とす。

 足を止めず、視線も向けず。

「……お前は、体よくあしらわれたな」

 意味のわからない言葉。

 けれど、背中から滲み出るものは確かに重かった。

 突き当りに差し掛かり旧施設の扉。

 扉を開けた瞬間、鉄と薬品の匂いが鼻を突いた。

 胃の奥が痙攣し、吐き気が込み上げる。

 暗がりの奥から、呻き声が響いた。

 鉄格子の向こう――そこには、かつて実験体にされた猛獣がいた。

 皮膚は裂け、管が埋め込まれ、濁った眼球がぎょろりと光る。

「……ッ」

 咆哮と共に鉄格子がきしみ、猛獣が飛びかかる。

 キサラギは反射的に後ずさった。

 その隣を、前勇者が一歩だけ進み出る。

 瞬間、石が淡く光った。

 空気が震え、重い響きが地面を這う。

 猛獣は突進の姿勢のまま、糸が切れたように崩れ落ちた。

 床を揺らす巨体は、そのまま深い眠りに沈んでいく。

 あまりにも一瞬だった。

「……怖かったら、そこで見てろ、坊ちゃん」

 勇者は振り返らない。

 ただ低く言い放ち、再び歩き出す。

 キサラギは言葉を失った。

 息を整える暇もないまま、現実を突き付けられる。

(……俺は、ここにいても、何もできない)

 強くもなれない。

 役に立つこともない。

 ただ、調査隊に入りたいと駄々をこね、無理やりねじ込まれた子供。

 その末路が――勇者の世話係。

 組織は自分を“体よくあしらった”だけだった。

 その意味が、胸に重く沈んでいく。


***

 視界がにじんで、気づけばそこは懐かしい道場だった。

 畳の青い香り、夕方の淡い光。

 幼い自分とアサヒ、そして父が三人で正座している。

 ほんの少し前のことだ。

 帰り道に野犬に追われ、アサヒが転んだ。

 その時、無力さに胸を締めつけられて――口をついて出たのだ。

 強くなりたい、と。

「……レイ、強くなりたいって言ったんだよな」

 父の穏やかな声が、やわらかく耳をくすぐる。

「……うん」

 小さな声で頷く幼いレイ。

 父は少し考えるように顎に手を当て、それからゆっくりと言った。

「合気道はどうだろう。お前とアサヒに、きっと合うと思う」

「ほんとに? できるかな」

 横でアサヒが目を丸くする。

 父はふっと笑みを浮かべ、二人を見比べた。

「できるよ。アサヒは心を強くするために。レイは心を守るために」

 幼いレイは、その言葉の意味を理解しきれなかった。

 ただ静かに頷き、父の横顔を見つめる。

 ――胸の奥に、わずかに温かいものが灯った。


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