影の記憶
「……悪い人ですね」
冷ややかな声が、静かな執務室に落ちた。
書類の山を横目に、焔羅は椅子にだらしなく身を預け、口元だけで笑う。
「えー?なにが?」
飄々と返す声に、光はわずかにため息を吐いた。
「二人が向かったあの施設……幻影系の実験が行われていたはずです。制圧任務、焔羅さんの割り振りでしたよね」
机に積まれた記録に目を落としながらも、その声音には揺らぎがない。
「おお、よく覚えてんな」
「僕、記憶力はいいので」
淡々と告げる光の冷めた視線に、焔羅は肩をすくめた。
「だ、大丈夫だって。もう残り香みたいなもんしか残ってないだろ?せいぜい、ちょっと嫌な夢見せてくるくらいだって」
軽い調子で言いながらも、光の鋭い目に射抜かれ、わずかに腰が引ける。
「それに――キサラギだって悪い癖、直してもらわないと。下が育たねぇよ」
言い終えてから、茶化すように笑う。
「ね?わかるでしょ?」
焔羅の試すような声色に、光は静かに答える。
「……まぁ、たしかに」
***
石造りの廊下は、地下へ向かうにつれて湿気を増していった。
冷たい空気が肌を撫で、足音だけが乾いた反響を返す。
先を歩く男は、一言も発しない。
ただ、迷いのない早足で暗がりを突き進む。
幼いキサラギは、その背を黙って追った。
――勇者。
そう呼ばれる男の世話係になって数日。
わかったことは、一つ。
この男には、生活の匂いがない。
部屋は散らかり放題で、自分からは片づけもしない。
何もなければ、一人で延々と書き物に没頭し、飯も言われなければ取らない。
英雄どころか、覇気すら感じられない。
(……こんなのが、本当に)
疑念が募り、言葉が口をついた。
「……あんたは――」
問いかけの続きを紡ぐ前に、男がちらりと振り返った。
怒っているわけでも、問い返すわけでもない。
ただ、無表情のまま視線を寄越しただけ。
それなのに、キサラギの喉は詰まり、声が止まった。
張り詰めた空気が、言葉を凍らせる。
男はまた前を向き、淡々と歩きながら口を開いた。
「……なんで助かったのに、わざわざこんなとこに来た?」
――“助けた”とは言わない。
ただ“助かった”とだけ言う。
キサラギは一拍置いて答えた。
「……あんなにいろんなものを見た。知らないで生きていられるわけがない」
勇者はその言葉に、短く吐息を落とす。
足を止めず、視線も向けず。
「……お前は、体よくあしらわれたな」
意味のわからない言葉。
けれど、背中から滲み出るものは確かに重かった。
突き当りに差し掛かり旧施設の扉。
扉を開けた瞬間、鉄と薬品の匂いが鼻を突いた。
胃の奥が痙攣し、吐き気が込み上げる。
暗がりの奥から、呻き声が響いた。
鉄格子の向こう――そこには、かつて実験体にされた猛獣がいた。
皮膚は裂け、管が埋め込まれ、濁った眼球がぎょろりと光る。
「……ッ」
咆哮と共に鉄格子がきしみ、猛獣が飛びかかる。
キサラギは反射的に後ずさった。
その隣を、前勇者が一歩だけ進み出る。
瞬間、石が淡く光った。
空気が震え、重い響きが地面を這う。
猛獣は突進の姿勢のまま、糸が切れたように崩れ落ちた。
床を揺らす巨体は、そのまま深い眠りに沈んでいく。
あまりにも一瞬だった。
「……怖かったら、そこで見てろ、坊ちゃん」
勇者は振り返らない。
ただ低く言い放ち、再び歩き出す。
キサラギは言葉を失った。
息を整える暇もないまま、現実を突き付けられる。
(……俺は、ここにいても、何もできない)
強くもなれない。
役に立つこともない。
ただ、調査隊に入りたいと駄々をこね、無理やりねじ込まれた子供。
その末路が――勇者の世話係。
組織は自分を“体よくあしらった”だけだった。
その意味が、胸に重く沈んでいく。
***
視界がにじんで、気づけばそこは懐かしい道場だった。
畳の青い香り、夕方の淡い光。
幼い自分とアサヒ、そして父が三人で正座している。
ほんの少し前のことだ。
帰り道に野犬に追われ、アサヒが転んだ。
その時、無力さに胸を締めつけられて――口をついて出たのだ。
強くなりたい、と。
「……レイ、強くなりたいって言ったんだよな」
父の穏やかな声が、やわらかく耳をくすぐる。
「……うん」
小さな声で頷く幼いレイ。
父は少し考えるように顎に手を当て、それからゆっくりと言った。
「合気道はどうだろう。お前とアサヒに、きっと合うと思う」
「ほんとに? できるかな」
横でアサヒが目を丸くする。
父はふっと笑みを浮かべ、二人を見比べた。
「できるよ。アサヒは心を強くするために。レイは心を守るために」
幼いレイは、その言葉の意味を理解しきれなかった。
ただ静かに頷き、父の横顔を見つめる。
――胸の奥に、わずかに温かいものが灯った。




