ひとりにしないために
――ずっと怖かった。
彼女はいつか、素知らぬ顔で背を向け、ひとりどこかへ行ってしまうのではないかと。
大きな窓から吹き込む風に揺れる紫の髪。
その横顔には、子どものように丸いのに、油断を許さぬ鋭さを宿した瞳。
焔羅は、勝手に開けた紫の部屋の扉の陰から、その姿をただ黙って見ていた。
「……勝手に入ってくるなって、何度言えばわかる」
紫は振り返らず、淡々と告げる。
「えー? だって紫ちゃん、全然こっちに遊びに来てくれないじゃん」
「行く意味がない」
その声音の冷たさに、焔羅は大げさに肩をすくめ、傷ついたふりをした。
(……よく言うよ)
焔羅は知っている。
紫は、自分が入ってくることに最初から気づいていることを。
そして――待っていることを。
鍵を開けたままにして。
背もたれを前に椅子に腰かけ、焔羅は飽きることなく彼女の横顔を見つめる。
もう子どもではなくなった。
昔あった”なにか”を、心のどこかに閉じ込めてしまわなければいけない年齢になってしまった。
だというのに。
紫は、いまだ幼さの残る少女のような姿をしていた。
そのくせ、大人ぶった態度ばかり取るから、余計にややこしい。
垣間見える自己否定。
――自分なんか大切にされるはずがない。
――そもそも、その資格もない。
紫は心の底からそう思い込んでいる。
危うく、壊れやすい欠片を抱えたまま。
(……なくてはならないのに)
焔羅にとって、紫はもう欠かせない存在になっていた。
なのに時折思う。紫は、自分がいなくてもきっと生きていけるのではないかと。
圧倒的に孤高で、強すぎる彼女を前にすると、不安が募って仕方ない。
紫はいつも、焔羅が欲しい言葉を与えてくれる。
だから縋ってしまう。
期待してしまう。
そんな自分が、嫌になる。
――彼女を孤独に追いやる種のひとつになってしまうのではないかと、怖くなる。
ふと、景色がきしむ音がした。
窓も椅子も揺らぎ、空間そのものがひしゃげる。
視界は闇に塗り潰され、焔羅の体は沈んでいった。
(……あぁ、これは)
不思議と腑に落ちる感覚。
自分は今、意識の奥底にいるのだと理解する。
そんな中椅子の背もたれに、突っ伏した。
幼いころの記憶が浮かぶ。
二人きりの屋敷。紫に必死に世話を焼き、引き留めようとした日々。
脳裏に反響する声――紫の言葉。
『……私がお前を殺してやる』
『誰でもない、私が殺す。だから――勝手に死ぬな』
ああ。
あの言葉を、ずっと胸の奥で灯火みたいに抱えてきた。
焔羅は暗闇に突っ伏したまま、唇を噛みしめる。
「――いかなきゃ、な」
彼女を一人にしないために。
その言葉と共に、胸の奥で火が再び燃え上がった。
***
制御装置を断ち切った刃が床に転がり落ちた。
紫はそのまま壁に凭れ、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
紫煙は確かに薄れていた。
だが、身体はもう一歩も動かない。
胸の奥が焼け、肺は鉛のように重い。
瞼の裏に過去が蘇る。
幼い頃、久遠の糸に縫いつけられ、喉へと無理やり流し込まれた毒の記憶。
息をするたびに痛みに泣き叫んだあの夜。
耳の奥に、あの男の声がこびりついていた。
『……本当に大事なときは、誰も助けてなんかくれねぇんだよ』
低く笑うような響きが胸を抉る。
あぁ、そうだ――。
ずっと言われていたはずだ。こんな人間はこんなところで静かに死んでいくのが似合っている。
視界が滲み、闇が広がっていく。
ゆっくりと目を閉じかけた、そのときだった。
――空気が揺れた。
重く淀んでいた紫煙が裂け、すぐそばの空間が避ける。
誰かの気配。
瞼をわずかに開くと、そこに立っていたのは――焔羅だった。
まだ微量な毒が残る中、全身に傷を負い、なおも立ち続けるその姿。
荒い息を吐きながら、彼はためらいもなく紫の傍らに膝をついた。
強くも優しくもない、不格好な抱き上げ方だった。
だが確かに温かく、紫の身体を支えていた。
「……いつも、自分からは来てくれねぇんだから……」
掠れた声。
紫の視界が揺れる。
低いような心地の良い響きが、胸の奥に沁み込んでいった。
焔羅は、毒に目を焼かれながらも顔を伏せ、紫を抱え直す。
ひと段、またひと段。
その足取りはふらつき、何度も倒れそうになりながら――それでも階段を登る。
崩れかけた意識の中。
紫はその背に、かすかな安堵を覚えた。




