母と怪物
地下の一室。
湿った石壁に囲まれたそこは、いつしか紫のためだけの檻になっていた。
分家の男たちが糸を操り、まだ幼い紫の体に毒を流し込む。
苦悶に歪む顔を見ながら、彼らは楽しげに笑う。
「ほら、声を出せ。お前は人じゃない。人の真似なんてするな」
「……まだ耐えるのか。化け物め」
日々、必要以上の調教が繰り返されていた。
石を宿した子供を「道具」として従わせるための訓練。だがそのやり方は訓練を超え、ただの虐待に等しかった。
紫の瞳から、少しずつ光が失われていく。
無表情で、声を出さず、ただ命令されるままに動くようになっていく。
その変化を、霞は見ていた。
遊郭へ長期で駆り出されることが増え、紫のもとを訪れる日も限られていた。
戻ってきて顔を見るたびに――紫の中の「子供らしさ」がひとつ、またひとつと削ぎ落とされていく。
(……どうすりゃいいんだ、私は)
どうすることもできない。
本家の力は弱まり、分家の者たちの横暴を止められる者はいなかった。
霞には後ろ盾もなく、ただ遠くから見守るしかなかった。
ある日。
分家の人間が口々に言い出した。
「……管理するリスクのほうが高い。あんな化け物、実験場に回せばいい」
「毒と糸の耐久を測るなら、あのガキほど適任はいない」
ぞっとするような笑みを浮かべ、紫を「素材」と呼んだ。
霞の胸に、冷たい刃のような感覚が走る。
このままでは、本当に壊されてしまう。
いずれ二度と帰ってこられない場所へ連れていかれる。
夜。
霞はこっそり紫の部屋を訪れた。
小さな体は薄い布に包まれ、目だけが天井を虚ろに見ていた。
霞はその横に腰を下ろす。
喉が詰まり、言葉がなかなか出なかった。
けれど――ようやく、唇が震えた。
「……二人で、逃げよう」
それは決意とも祈りともつかない声だった。
霞の目に宿る光を、紫はただ黙って見つめていた。
その瞳にはまだ、かすかに子供の影が残っていた。
***
夜霧の屋敷を、炎と怒号が包んでいた。
血脈同士の争い――本家と分家の抗争は、すでに始まっていた。
その混乱のさなか、霞は紫の手を強く握りしめ、裏口から闇へと走り出た。
小さな掌は冷たく、だが決して離すまいと、紫もまた力を込めて握り返していた。
「……いいか、絶対に離すな」
霞は低く言い聞かせるように告げた。
紫はただ黙って頷いた。
炎の光がその瞳に映り込む。
二人は肩を寄せ、暗い路地を駆ける。
その途中、霞がぽつりと口を開いた。
「ここから出たら……お前は、私のことを母ちゃんって呼べ」
足を止めぬまま、吐き出すように言う。
「隠れて暮らそう。私も……忍びなんてやめる。お前一人くらい、どうにでも養っていける」
紫の目がわずかに見開かれた。
胸の奥に、淡い温もりが差し込む。
ほんの少し、頬に嬉しさが浮かんだ。
――はじめて与えられた「居場所」。
だが、その願いはすぐに断ち切られる。
四方の路地から、分家の者たちが雪崩れ込んできた。
霞は紫を背に庇い、短刀を抜く。
炎の逆光に照らされた刃が、敵を薙ぎ払う。
「走れ、紫!」
血を蹴散らしながら叫ぶ。
しかし。
その先に、久遠の影が立っていた。
「……やっぱり、こうなると思ってたよ」
白い指がひらりと宙をなぞる。
次の瞬間、紫の背に装着された制御装置が、ギィンと音を立てて稼働した。
黒い糸が脈打つように紫の体に絡みつく。
「――っ!」
紫は膝を折り、喉から低いうめきを漏らした。
その頭上に、分家の放った攻撃が飛来する。
矢と刃の奔流が、幼い身体を狙った。
「紫――っ!」
霞は咄嗟に抱き寄せた。
次の瞬間、鋭い閃光が走り――霞の身体を貫いた。
鉄臭い匂いが広がる。
霞の背中に、血が噴き出した。
「……かす……み……」
紫の声が震える。
霞は苦しげに息を吐き、しかし笑った。
震える腕で紫を抱き締めながら、掠れた声で呟く。
「――お前さ……私の腹から……出てこればよかったのにな」
温もりが、かすかに残る。
だがその目はすでに力を失い始めていた。
紫は呆然とその顔を見つめる。
意味を理解できず、ただ血に染まる感触だけが現実を告げる。
その瞬間。
背中の制御装置に、ひびが走った。
ガラスの砕けるような音。
黒い糸が弾け飛び、紫の全身を紫光が包んだ。
瞳が怪しく輝き、喉の奥から獣のような唸り声が漏れる。
「――ああ、いい。これだよ、紫」
久遠が嗤う。
その瞬間から、紫の暴走が始まった。
悲しい怪物の産声。




