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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十一 久遠の影
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母と怪物

 地下の一室。

 湿った石壁に囲まれたそこは、いつしか紫のためだけの檻になっていた。

 分家の男たちが糸を操り、まだ幼い紫の体に毒を流し込む。

 苦悶に歪む顔を見ながら、彼らは楽しげに笑う。

「ほら、声を出せ。お前は人じゃない。人の真似なんてするな」

「……まだ耐えるのか。化け物め」

 日々、必要以上の調教が繰り返されていた。

 石を宿した子供を「道具」として従わせるための訓練。だがそのやり方は訓練を超え、ただの虐待に等しかった。

 紫の瞳から、少しずつ光が失われていく。

 無表情で、声を出さず、ただ命令されるままに動くようになっていく。

 その変化を、霞は見ていた。

 遊郭へ長期で駆り出されることが増え、紫のもとを訪れる日も限られていた。

 戻ってきて顔を見るたびに――紫の中の「子供らしさ」がひとつ、またひとつと削ぎ落とされていく。

(……どうすりゃいいんだ、私は)

 どうすることもできない。

 本家の力は弱まり、分家の者たちの横暴を止められる者はいなかった。

 霞には後ろ盾もなく、ただ遠くから見守るしかなかった。

 ある日。

 分家の人間が口々に言い出した。

「……管理するリスクのほうが高い。あんな化け物、実験場に回せばいい」

「毒と糸の耐久を測るなら、あのガキほど適任はいない」

 ぞっとするような笑みを浮かべ、紫を「素材」と呼んだ。

 霞の胸に、冷たい刃のような感覚が走る。

 このままでは、本当に壊されてしまう。

 いずれ二度と帰ってこられない場所へ連れていかれる。

 夜。

 霞はこっそり紫の部屋を訪れた。

 小さな体は薄い布に包まれ、目だけが天井を虚ろに見ていた。

 霞はその横に腰を下ろす。

 喉が詰まり、言葉がなかなか出なかった。

 けれど――ようやく、唇が震えた。

「……二人で、逃げよう」

 それは決意とも祈りともつかない声だった。

 霞の目に宿る光を、紫はただ黙って見つめていた。

 その瞳にはまだ、かすかに子供の影が残っていた。


***

 夜霧の屋敷を、炎と怒号が包んでいた。

 血脈同士の争い――本家と分家の抗争は、すでに始まっていた。

 その混乱のさなか、霞は紫の手を強く握りしめ、裏口から闇へと走り出た。

 小さな掌は冷たく、だが決して離すまいと、紫もまた力を込めて握り返していた。

「……いいか、絶対に離すな」

 霞は低く言い聞かせるように告げた。

 紫はただ黙って頷いた。

 炎の光がその瞳に映り込む。

 二人は肩を寄せ、暗い路地を駆ける。

 その途中、霞がぽつりと口を開いた。

「ここから出たら……お前は、私のことを母ちゃんって呼べ」

 足を止めぬまま、吐き出すように言う。

「隠れて暮らそう。私も……忍びなんてやめる。お前一人くらい、どうにでも養っていける」

 紫の目がわずかに見開かれた。

 胸の奥に、淡い温もりが差し込む。

 ほんの少し、頬に嬉しさが浮かんだ。

 ――はじめて与えられた「居場所」。

 だが、その願いはすぐに断ち切られる。

 四方の路地から、分家の者たちが雪崩れ込んできた。

 霞は紫を背に庇い、短刀を抜く。

 炎の逆光に照らされた刃が、敵を薙ぎ払う。

「走れ、紫!」

 血を蹴散らしながら叫ぶ。

 しかし。

 その先に、久遠の影が立っていた。

「……やっぱり、こうなると思ってたよ」

 白い指がひらりと宙をなぞる。

 次の瞬間、紫の背に装着された制御装置が、ギィンと音を立てて稼働した。

 黒い糸が脈打つように紫の体に絡みつく。

「――っ!」

 紫は膝を折り、喉から低いうめきを漏らした。

 その頭上に、分家の放った攻撃が飛来する。

 矢と刃の奔流が、幼い身体を狙った。

「紫――っ!」

 霞は咄嗟に抱き寄せた。

 次の瞬間、鋭い閃光が走り――霞の身体を貫いた。

 鉄臭い匂いが広がる。

 霞の背中に、血が噴き出した。

「……かす……み……」

 紫の声が震える。

 霞は苦しげに息を吐き、しかし笑った。

 震える腕で紫を抱き締めながら、掠れた声で呟く。

「――お前さ……私の腹から……出てこればよかったのにな」

 温もりが、かすかに残る。

 だがその目はすでに力を失い始めていた。

 紫は呆然とその顔を見つめる。

 意味を理解できず、ただ血に染まる感触だけが現実を告げる。

 その瞬間。

 背中の制御装置に、ひびが走った。

 ガラスの砕けるような音。

 黒い糸が弾け飛び、紫の全身を紫光が包んだ。

 瞳が怪しく輝き、喉の奥から獣のような唸り声が漏れる。

「――ああ、いい。これだよ、紫」

 久遠が嗤う。

 その瞬間から、紫の暴走が始まった。

 悲しい怪物の産声。




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