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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十一 久遠の影
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悲しい怪物

 石の壁を打つ靴音が、地下へと響き渡る。

 紫は駆け下りていった。

 降りるごとに、空気は濃く淀み、胸を刺す匂いが増していく。

 ――甘い。

 果実の腐りかけのように、ねっとりとした甘さ。鼻腔にまとわりつき、肺を締め上げてくる。

 視界の奥、濃紫の靄の中から、無数の影がゆらめいた。

 久遠の糸に操られた傀儡たち。

 歪んだ姿で地下通路を埋め尽くし、道を塞ぐ。

 紫は迷わず二振りの細身の剣を抜いた。

 刃が毒の粒子を裂き、鈍い光を返す。

 一閃。二閃。

 傀儡の体が音を立てて崩れ落ちる。

 しかし次の瞬間、巨躯の腕が壁を揺らしながら伸び、紫の胸を締め上げた。

 骨がきしみ、背が石に叩きつけられる。

 紫は唇を裂けるほど噛み締め、力を振り絞った。

 剣を振り抜き、肉を裂き、糸を断ち切る。

 崩れ落ちる傀儡。

 だがその反動で――紫の口から、大きな息が漏れた。

 毒が肺を満たす。

 焼け付くような痛み。

 喉の奥がただれて咳き込み、膝が砕ける。

 視界が赤黒く染まり、目に血が滲む。

 その隙を狙い、残りの傀儡たちが取り囲む。

 影のように、音もなく。

 じわりと迫る絶望の渦。

 紫はふらつく頭を支え、揺れる視界を必死に結ぶ。

 思い浮かぶのは仲間たちの顔。

 アサヒ、兆、キサラギ、レイ……

 そして――最後に焔羅の横顔。

 瞬間、紫の項に埋め込まれた石が閃いた。

 ギラリ、と紫光が走る。

 瞳までもが同じ色に染まり、血走った目が怪物の輝きを宿す。

 どくどくと暴れる鼓動。

 破裂しそうな血流を、歯を食いしばって押さえ込む。

 ――まだ、立てる。

 紫は膝を叩きつけるようにして立ち上がった。

「どけぇえええええええ!!!」

 咆哮。

 声は獣の唸りにも似ていた。

 剣が閃き、傀儡の群れが吹き飛ぶ。

 壁が砕け、骨が砕け、黒い糸が千切れて散る。

 紫は暴れ狂う怪物のように、毒の霧を裂き、傀儡を片端から薙ぎ払った。

 やがて、静寂が訪れる。

 残骸の中を、紫はただ一人で歩いていた。

 紫煙に包まれたその姿は、哀れなまでに歪んでいた。

 血走る瞳。

 子供のように顔を歪めて笑う口元。

 ――悲しい怪物。

 紫は制御装置の前に立ち、剣を振り上げた。

「……少しは、こんな力でも……マシな使い方、できたかな……霞」

 呟きは、震えていた。

 幼子のような、拙い祈りの声。

 そして刃が振り下ろされる。

 鉄と石がぶつかり、轟音とともに光が弾けた。


***

 夜霧の屋敷に、新たな産声が響いた。

 ひととき、喜びが広間を包む。

 跡継ぎの誕生。誰もが祝福の言葉を投げかけた。

 だが、次の瞬間に空気は凍りついた。

 赤子のうなじに、淡く光る石が埋め込まれていたのだ。

 石つき――。

 本来、分家にしか生まれぬはずの存在。

 それは道具として本家に管理され、血脈の外に隔離されるのが常であった。

 だが、その“異端”が本家に生まれたのは初めてだった。

 喜びはたちまち困惑に変わり、やがて不気味なざわめきにすり替わる。

 この子の存在は、夜霧の本家と分家の力関係に亀裂を生じさせる――

 それを誰もが直感していた。

 産んだ母はその日を境に心を病み、部屋に籠るようになった。

「化け物を産んだ」

 そう呟き、決して寝所から出ようとしなくなった。

 その声を、霞は遠巻きに聞いていた。

 年の離れた姉の出産を、まるで他人事のように。

 自分は子を産めぬ身体だ。

 だからこそ、家のことも血のことも、どこか冷めた目で眺めるしかなかった。

 赤子は屋敷に残された。

 紫と名付けられたその子は、生まれたときから泣かなかった。

 笑いもせず、声も立てず、無表情のまま揺り籠に座り続けていた。

「気味が悪い」

 屋敷の隅々で囁かれる噂は、やがて本家の決定となった。

 紫は屋敷の片隅に追いやられた。

 閉じ込められ、光から遠ざけられ、ただ存在を疎まれるだけの日々。

 ――力の扱いが難しい。

 ――本家の血から生まれたイレギュラー。

 その二つの理由だけで、紫は忌み嫌われた。

 霞はその噂話を廊下で耳にしても、いつもどうでもよさそうに受け流していた。

 ある日、霞はいつものように廊下を歩いていた。

 遊郭に呼び出される前の、わずかな空き時間。

 屋敷の奥――滅多に人の足音のしない一角に、ふと足が向く。

 そこは紫が押し込められている部屋だった。

 襖の前で足が止まる。

 なぜかは自分でもわからなかった。

 気まぐれのような衝動で、霞は手を伸ばし、音を立てぬように襖を引いた。

 薄暗い部屋の中。

 窓には分厚い布が掛けられ、光はほとんど差し込まない。

 その中央に、小さな歩行器が置かれていた。

 その中に――紫はいた。

 まだ幼い、石つきの赤子。

 首は据わり、じっと前を見つめている。けれど、まるで時間が止まったように身じろぎ一つしない。

「……なんだってんだ」

 思わず漏らした霞の声は、苦笑に近かった。

 屋敷中が恐れる「化け物」。

 だが目の前にいるのは、声ひとつ上げない、ただの子どもにしか見えない。

 霞はゆっくりと歩み寄った。

 膝を折り、歩行器の前に座る。

「……こんな子供の、なにが怖いんだろうな」

 そして興味半分に、赤子の頬へと指先を伸ばす。

 ちょん、ちょん。

 やわらかい肌に触れたそのとき――。

 赤子の小さな背が、ふるりと震えた。

 次いで、澄んだ笑い声が、室内に広がった。

「……っ!」

 霞は思わず息を呑んだ。

 襖から差し込むかすかな光に、赤子の肩が揺れる。

 肩が揺れ、体全体で笑っている。

 今まで無表情の人形のようだった子が、確かに「赤ん坊」として息づいていた。

 胸の奥で、ドン、と強烈な鼓動が鳴る。

「……な、に……?」

 思わず胸に手を当てた霞の顔が真っ赤に染まる。

 理由のない衝動だった。

 温かく、くすぐったく、どうしようもなく尊い感覚。

 自分にだけ向けられた笑い声。守らなければならないと錯覚させるほどの、無垢な存在。

(……なんだ、今の……なんだ今の!!)

 霞は抑えきれない気持ちを抱きながらも、紫から目を離すことができなかった。


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