あとは、頼んだ
鋭い息を吐きながら、レイは焔羅の前に立ちはだかっていた。
剣を振るい、迫る遊女を受け流す。だが片腕は焔羅を庇うように伸ばしたまま。防御は後手に回り、じわじわと追い詰められていく。
そのときだった。
――ごうん、ごうん、と地鳴りのような音が地下から響いた。
鈍い機械の稼働音が、石畳を震わせる。鼻を刺すような、甘ったるい匂いがわずかに漂った。
「……っ、なに……?」
レイの視線が下方へと泳ぐ。
視界の端で、壊れかけた久遠の傀儡が震えていた。胸を貫かれ、折れた関節をカタカタと打ち鳴らしながら、それでもなお口を開く。
「……タ、イムリミット……まで……じかん……が、ない……」
声は途切れ、金属がこすれるように掠れていた。
「……どく……につつまれて……みんな……いっしょ……」
ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。
レイは直感した。――毒。
このままでは、地下から一気に充満する。焔羅どころか、自分も含めて皆、呑まれる。
「……!」
思考が一瞬、空白になる。
その刹那。
操られた遊女が振り下ろした刃が、レイの肩口を狙った。
反応が遅れる――。
しかし鋼が肉を裂くよりも早く、影が割り込んだ。
火花が散り、刀身が弾かれる。
「……紫!」
振り返ったレイの目に映ったのは、黒衣を翻した紫の背だった。
「なんでここに……!」
問いかけに、紫は短く答える。
「この町は、みんな繋がっている。……遊郭からの抜け道を使った」
その声音に無駄はなく、状況を一瞬で説明しきっていた。
紫は嗅覚を刺す甘い匂いと、地下から響く異様な振動に視線を落とす。
久遠が仕掛けたもの――毒の流出。
傀儡の群れを倒し、機械中枢までたどり着く。それが唯一の手段だ。
だが、あの濃度。普通の人間なら一呼吸で死ぬ。自分でも戻ってこれる保証はない。
ふと、倒れている焔羅の顔が目に映った。
荒い呼吸を繰り返し、意識のない横顔。
その瞬間――胸の奥に沈んでいた記憶が、不意に呼び覚まされる。
幼いころ。
焔羅に、自分が囁いた言葉。
『……私がお前を殺してやる』
『誰でもない、私が殺す。だから――勝手に死ぬな』
それは歪んだ絆でありながらも、唯一確かな約束だった。
世界に二人しかいなかったはずなのに。
今、その焔羅を、レイが必死に守っている。
剣を振るう小さな背中。
自分とは違う形で焔羅を思い、命を賭ける姿。
焔羅が彼を気に入っていることも知っている。
複雑で、危うい心を抱えた焔羅のそばに、この少年がいれば――もしかしたら、焔羅は一人じゃなくて済むのかもしれない。
(……私がいなくても、大丈夫だ)
静かな確信が芽生える。
紫はわずかに目を伏せ、口元に穏やかな笑みを浮かべた。
その変化を、レイは見逃さなかった。
「……だめだ……紫……やめてくれ……」
声が震えていた。
紫は焔羅の横顔に一瞬だけ手を伸ばしかけ、止める。
代わりに振り返り、レイへと穏やかに微笑んだ。
焔羅を一人残そうとする自分勝手さを自覚しながら、それでも――小さな希望を託す。
「……あとは、頼んだ」
低く、しかし優しい響き。
その一言に、レイの胸が締めつけられる。
次の瞬間、紫は迫り来る遊女を掴み、力強くレイの方へと投げ飛ばした。
「――っ!」
咄嗟に受け止め、剣で糸を断ち切るレイ。
視線を戻したときには、紫の背中はすでに地下への扉を押し開いていた。
甘い匂いが濃くなる。
それは致死量の毒の証。
紫は一瞬だけ深呼吸し、目を閉じた。
「……良かった本当に」
レイがいて。
そう呟くと、迷いなく毒煙の渦へと身を投じた。
***
幼い紫の身体に、紫煙が無理やり流し込まれていた。
喉を焼き、肺を掻き毟るような毒。視界が白く濁り、意識が遠のいていく。
「……あぁ、いい顔だ。もっと覚え込め。これがお前の役割だ」
久遠の手が糸を操り、紫の細い体を机に縫い付ける。黒い糸が脈のように脈打ち、体中を締め上げていた。
その時だった。
「……おい」
低い声。
戸口から姿を現したのは、遊郭帰りの霞だった。額には汗が光り、目は烈火のように鋭い。
「……何してやがる」
霞の声に、紫は朦朧とした視界の中で顔を向けた。自分とよく似た顔――血の繋がった叔母の姿がそこにあった。
久遠は薄く笑い、肩を竦める。
「……はは。遊郭から戻ってくるなんて珍しいな。予定より早かったか?」
「……こんなガキに何してんだって聞いてんだよ」
霞の低い声が震えた。
「ガキ?」
久遠の目が笑う。
「違うな、化け物の間違いだろ」
その言葉に、霞の瞳に怒りの炎が宿った。
腰に隠していた短刀に手を伸ばす。
しかし、その瞬間。
シュルリと黒い糸が伸び、霞の手首を絡め取った。
「……っ!」
糸が締め上げ、霞の肌に赤い痕が浮かぶ。
「おいおい……出来損ないが吠えるなよ」
久遠の声は愉快そうに震えていた。
「お前には跡継ぎを産めねぇんだからよぉ」
霞の顔が歪む。
「まぁ……お前の姉も、こんなバケモンしか産めなかったわけだがな」
楽しげに告げる言葉は、毒よりも鋭く突き刺さる。
「だから仕方ねぇんだよ。毎回、化け物を制御する側の本家から生まれちまったんだからよ」
ぐっと糸を引き締めながら、久遠は薄ら笑いを浮かべる。
「俺に感謝しろよ。飼いならしやすくしてやってんだからよぉ」
霞は歯を食いしばり、怒りで顔を歪める。
だが、その場で糸を断ち切る力はなかった。
「……まぁ、いい」
久遠は嘲るように吐き捨てる。
「精々、傷の舐め合いでもしてろよ」
そう言い残し、糸を解いて部屋を出ていった。
糸が外れ、霞は荒く息を吐き出す。
すぐさま紫のもとへ駆け寄った。
「……大丈夫か……!」
霞の声を聞きながら、紫の意識は闇に呑まれていった。




