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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十一 久遠の影
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揺らぐ瞳

 瓶が床に落ち、割れる音が響いた。

 どろりと濁った液体が畳に広がり、鉄具を伝っていた管がぶちぶちと音を立てて外れる。

 そこから解き放たれたのは――石持ちの遊女たちだった。

 豪奢な着物は破れ、肌は青白く痩せこけている。

 だが瞳だけはまだ生きていた。涙に濡れ、唇が震え、かすれた声が洩れる。

「……たすけて……」

「……いや……もういや……」

 その言葉とは裏腹に、震える腕が刃を握りしめ、ぎこちなくも確かな殺意を帯びて焔羅とレイに迫る。

 次の瞬間、銀閃が描かれ、迫る刃を逸らした。斬るのではなく、関節を狙い、武器だけを叩き落とす。

 致命傷は避ける――だが、それが逆にレイの手を鈍らせていた。

 焔羅は歯噛みし、拳を振り抜く。だが寸前で力を殺し、相手を壁際に弾き飛ばすだけに留める。

 拳に過剰な力がこもりすぎ、指の骨が軋んだ。

(……戦場で迷うな。戦場で……)

 己に言い聞かせても、目の前で涙を流しながら襲いかかる姿に拳は震えた。

 その時だった。

 ――ねっとりとした声が、闇に混じる。

「……どうにも迷いが出てるみたいだなぁ。優しいなぁ……お前ら」

 二人が振り向いた先。

 崩れた柱の影に――酒場で見た、あの男が立っていた。

 落ち窪んだ目、歪んだ口端。あの薄笑い。

 だが――皮膚の表面がひび割れ、乾いた肉が剥がれるように崩れ落ちる。

 裂け目からは黒い糸の束が蠢き、骨のような白い支柱が覗いた。

 片方の頬がごそりと剥げ落ち、垂れ下がった肉片が床に滴を落とす。

 それでも男は笑っていた。

 顎が外れかけても、声は濁らずに届く。

「そんなんじゃ、やってけないぜ?」

 レイが低く呟いた。

「……人形……いや、違う。これは……」

 焔羅は吐き捨てるように睨み据えた。

「……傀儡か」

 傀儡は笑い声を立てながら、一歩、また一歩と踏み出す。

 背後では「助けて」と叫びながら遊女たちが再び迫り、二人の刃と拳が交錯する。

 涙混じりの声と、傀儡の嘲笑が重なり、旧寺院の奥は地獄のような喧噪へと沈んでいった。

***


 座敷に敷かれた畳が、毒に焼けるように黒ずんでいく。

 久遠の掌から散布された薬煙。

 制御装置の赤い灯が点滅し、管につながれた石持ちの遊女が呻き声をあげる。

 次の瞬間、彼女らの瞳が濁り、狂ったように紫へと斬りかかった。

 ――だが紫は怯まない。

 刀を抜き、すれ違いざまに彼女らの刃を弾き飛ばす。

 返す刃で頬をかすめた毒の飛沫を浴びても、その表情は微動だにしない。

「……っは、化け物め」

 久遠の嘲りが、かすかに震えを帯びた。

 紫は低く息を吐き、じりじりと歩を進める。

 白い項に埋め込まれた石が、灯りを受けて鈍く輝いた。

「……こんな程度の毒も、全然きかなくなったんだなぁ」

 押されている状況とは裏腹に、久遠の顔にはどこか余裕があった。

 口端は笑みを保ち、楽しそうに紫を見つめる。

 紫は一歩、また一歩と距離を詰める。

 刀を下げたまま、ただ視線で押し込む。

「……びっくりだ」

 久遠の声はわずかに掠れていた。

 背後の制御装置が警告音を鳴らし、石付きの遊女たちが呻き声をあげる。

 毒と悲鳴が満ちる中――ただ、紫は揺るがない。


***

 兆が振るう鎖は唸りを上げ、鉄球の棘が石畳を砕いた。

 火花と粉塵が弾ける。

 巻きつけた鎖を豪腕で引き寄せると、再び紙袋の男目掛け鉄の塊が飛ばす。

 紙一重で紙袋の男はそれを避ける。男は背中から黒い影の触手をのばすが、それはキサラギの弾丸によって防がれる。それに合わせ、触手の数を増やし、やっとの思いでキサラギや兆を掠めるがそれは意味をなさなかった。

 そのたびに守るように、淡い光が散った。

 アサヒの掌から零れる癒しが、細かい切り傷を即座に塞いでいく。

 痛みを恐れず突き進める兆は、まるで無尽蔵の怪物のようだった。


「……チッ」

 紙袋の男の呼吸が荒くなる。

 呼吸は乱れ、額に滲む汗で紙袋がぐっしょりと濡れていた。

 盾にした遊女の体を前に突き出し、兆の一撃を逸らす。

 女の悲鳴が短く響く。

 刃を握らされた遊女たちは、涙を零しながらぎこちなく男を庇った。

 だが紙袋の男はその苦痛の顔を見ても、眉ひとつ動かさない。

「……くそっ」

 小さな悪態と共に、背中を乱暴に突き飛ばす。

 遊女の肩がはじけ飛ぶように揺れ、無理やり前へ踏み出させられる。

 兆は歯を食いしばる。遊女の身体を壊さぬように、力の加減を余儀なくされる。

 その隙を狙うかのように、紙袋の男はじりじりと距離を詰めてきた。

 アサヒの喉から小さな息が漏れる。

 「……ひどい」

 その声は憎悪ではなく、あまりに惨い光景への戸惑いだった。

 鎖の棘が唸りを上げ、紙袋の男に狙いを定める。しかし紙袋の男はとっさに触手で近くの遊女を引き寄せる。粉塵の向こうで遊女の悲鳴が弾けた。


「……やめて……」「もう、いや……」

 涙に濡れた声が路地にこだまする。掠れた乞いは、刃のきらめきと一緒に突き刺さった。

 その瞬間――紙袋の男の足が、わずかに止まった。

 顔の奥で、息が荒く漏れる。袋越しに見えた目が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。

 遊女の潤んだ瞳を見た途端、男は喉を鳴らして荒く呼吸する。

 耐えかねるように懐を探り、小瓶を掴み出した。

 震える指で蓋を弾き、錠剤を掴む。

 ――一粒。

 それでは足りない。

 ――二粒、三粒。

 乾いた音を立てて口に放り込み、唇の端から白い粉を散らしながら飲み下す。

 喉を鳴らす音が生々しく響き、肩が痙攣する。

「……っはあ……っ、……は……イケる……」

 袋の奥から漏れる声は笑いとも泣きともつかず、歪んでいた。

 だが、その目はもう焦点を結んでいない。

 虚ろに泳ぐ赤い瞳が、誰を見ているのかも分からなくなっていた。


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