久遠の囁き
霞む視界の中に浮かんだのは、下卑た笑みを浮かべる数人の人影だった。
幼い首筋には無骨な管が突き刺さり、腕には鉄の帯具。
口元を覆う器具が呼吸を奪い、冷たい液体が流れ込むたび、喉が焼けるように痺れる。
紫は声を上げない。
荒い息を殺し、無表情のまま床に伏す。
周囲の人影は笑いながら酒を傾け、幼い身体の苦悶を観察する。
その瞳に宿るのは侮蔑か、恨みか、あるいは嗜虐か――。
ただ一つ確かなのは、それが子供に向けるものではない眼差しだということ。
喉の奥に鉄の匂いがせり上がる。熱い液体が口元を伝い落ちる。
くつくつと響く笑い声。
久遠がゆっくりと近づき、紫の顎を掴み上げた。
愉快げに細められた目。歪んだ口端。
「……何人も殺したお前が、泣いていいわけないよなぁ」
指先がうなじの石をなぞり、紫に己の内に埋まるものを嫌でも自覚させる。
――これは、小さな化け物を飼いならすための儀式だった。
「人を殺すためかは知らねえが……お前の体はどうにも頑丈らしい。
こんな身体になってまで、殺しに抗えない。……どうしようもない化け物だよ」
耳にまとわりつく声。
管からは毒液が滴り落ち、幼い肺を締めつけていく。
「今からお前の大好きな殺しもさせてやる」
久遠は首元の装置を、猛獣の首輪でも撫でるかのように愛おしげに触れた。
紫は泣かない。声も上げない。
ただ、“人間”ではない何かとして、耐え続けた。
***
目の前の久遠が、杯を弄ぶ仕草で紫を見やる。
その手の動き――指のわずかな癖。
紫の胸奥で、あの日の記憶が稲妻のように閃いた。
あの時と、まったく同じだ。
久遠の指先も、視線の揺らし方も。
紫を「化け物」と呼びながら弄んだあの頃と。
奥底に張りついた薄暗いものが、じわりと蘇り始めていた。
***
くぐもった笑い声とともに、紙袋の男は歩みを止めた。
その後ろ――路地の闇から、ふらりと影が現れる。
艶やかな着物の裾を引きずり、虚ろな瞳をした女たち。
化粧は崩れ、口元からはかすかに泡が滲んでいる。
首筋や手首には鉄具が嵌められ、そこから淡い光を放つ管が伸びていた。
「……遊女?」
アサヒが息を呑む。
女たちの身体はぎこちなく震えていた。
まるで自我を削がれ、糸で操られる人形のように。
その目に涙が浮かび、「……たすけて……」と掠れた声を洩らしながら、刃を握りしめて迫ってくる。
「下がれ!」
キサラギが叫び、三人は咄嗟に構えを取った。
紙袋の男は、彼女たちを盾のように押し立てて前へと歩む。
動きは緩慢で不気味なのに、間合いはじわじわと詰まっていく。
その手には小瓶が握られていた。
蓋を乱暴にねじ開け、中の濁った液体を一息に流し込む。
喉を鳴らす音がやけに生々しく響き、次の瞬間、袋の奥から荒い呼吸が漏れた。
力を増したかのように腕がしなり、掴んだ遊女の身体を平然と前に突き出す。
刃が閃き、悲鳴が重なる。
――戦いは、泥のように濁った音を立てて始まった。
***
襖の向こうは、華やかな外の賑わいとは打って変わって、静まり返った座敷だった。
灯りは低く落とされ、畳に影が濃く落ちている。
紫が足を踏み入れると、そこにいたのは――歪んだ笑みを浮かべる男。
久遠。
「はは……やっぱり変わんねぇな。ガキの頃と同じ顔してる」
盃を弄びながら、久遠はにやついた。
「もう客は取ったのか?」
紫は答えない。無言のまま、瞳を細めた。
「……そんな怖い顔すんなよ。俺がいろいろ“教えてやった”だろ?」
わざと舌なめずりするような声。記憶の底を抉る響き。
紫の喉がわずかに震えた。
「……お前か。全部……お前がやっているのか」
「今更だろ?」
久遠は薄く笑い、肩をすくめた。
「お前だって夜霧の一族がどんな連中か、骨の髄までわかってるはずだ」
紫は言葉を失い、ただ唇を噛み締めた。
「――お前も同じだ、紫」
久遠の声はどこまでも愉快そうだ。
「結局のところ、あの血を引いてる時点で……俺と同じ側だ」
沈黙。
だが、紫の胸の奥にざわめきが広がる。
久遠は盃を置き、さらに言葉を重ねた。
「まあ、言ってもよ……お前が楽しそーに暴れまわったせいで、もう生き残りなんざほとんどいねぇけどな」
その一言に、紫の瞳が揺れる。
「……黙れ」
低く、押し殺した声。
久遠の目が愉快そうに細まる。
「なんだ? 珍しい顔するじゃねぇか」
唇を歪め、嘲るように言い放つ。
「もっと笑えよ……あの時みたいにな。血まみれで暴れまわってた時みたいに」
紫の手が柄に伸びる。
次の瞬間、空気が爆ぜた。
久遠の傀儡が床を蹴り、紫の刃と激突する。
畳が裂け、灯りが吹き消え、闇と火花が交錯する。
遊郭の奥座敷――静寂は一瞬で戦場へと変わった。




