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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十一 久遠の影
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久遠の囁き

 霞む視界の中に浮かんだのは、下卑た笑みを浮かべる数人の人影だった。

 幼い首筋には無骨な管が突き刺さり、腕には鉄の帯具。

 口元を覆う器具が呼吸を奪い、冷たい液体が流れ込むたび、喉が焼けるように痺れる。

 紫は声を上げない。

 荒い息を殺し、無表情のまま床に伏す。

 周囲の人影は笑いながら酒を傾け、幼い身体の苦悶を観察する。

 その瞳に宿るのは侮蔑か、恨みか、あるいは嗜虐か――。

 ただ一つ確かなのは、それが子供に向けるものではない眼差しだということ。

 喉の奥に鉄の匂いがせり上がる。熱い液体が口元を伝い落ちる。

 くつくつと響く笑い声。

 久遠がゆっくりと近づき、紫の顎を掴み上げた。

 愉快げに細められた目。歪んだ口端。

「……何人も殺したお前が、泣いていいわけないよなぁ」

 指先がうなじの石をなぞり、紫に己の内に埋まるものを嫌でも自覚させる。

 ――これは、小さな化け物を飼いならすための儀式だった。

「人を殺すためかは知らねえが……お前の体はどうにも頑丈らしい。

 こんな身体になってまで、殺しに抗えない。……どうしようもない化け物だよ」

 耳にまとわりつく声。

 管からは毒液が滴り落ち、幼い肺を締めつけていく。

「今からお前の大好きな殺しもさせてやる」

 久遠は首元の装置を、猛獣の首輪でも撫でるかのように愛おしげに触れた。

 紫は泣かない。声も上げない。

 ただ、“人間”ではない何かとして、耐え続けた。

***

 目の前の久遠が、杯を弄ぶ仕草で紫を見やる。

 その手の動き――指のわずかな癖。

 紫の胸奥で、あの日の記憶が稲妻のように閃いた。

 あの時と、まったく同じだ。

 久遠の指先も、視線の揺らし方も。

 紫を「化け物」と呼びながら弄んだあの頃と。

 奥底に張りついた薄暗いものが、じわりと蘇り始めていた。


***

 くぐもった笑い声とともに、紙袋の男は歩みを止めた。

 その後ろ――路地の闇から、ふらりと影が現れる。

 艶やかな着物の裾を引きずり、虚ろな瞳をした女たち。

 化粧は崩れ、口元からはかすかに泡が滲んでいる。

 首筋や手首には鉄具が嵌められ、そこから淡い光を放つ管が伸びていた。

「……遊女?」

 アサヒが息を呑む。

 女たちの身体はぎこちなく震えていた。

 まるで自我を削がれ、糸で操られる人形のように。

 その目に涙が浮かび、「……たすけて……」と掠れた声を洩らしながら、刃を握りしめて迫ってくる。

「下がれ!」

 キサラギが叫び、三人は咄嗟に構えを取った。

 紙袋の男は、彼女たちを盾のように押し立てて前へと歩む。

 動きは緩慢で不気味なのに、間合いはじわじわと詰まっていく。

 その手には小瓶が握られていた。

 蓋を乱暴にねじ開け、中の濁った液体を一息に流し込む。

 喉を鳴らす音がやけに生々しく響き、次の瞬間、袋の奥から荒い呼吸が漏れた。

 力を増したかのように腕がしなり、掴んだ遊女の身体を平然と前に突き出す。

 刃が閃き、悲鳴が重なる。

 ――戦いは、泥のように濁った音を立てて始まった。

***

 襖の向こうは、華やかな外の賑わいとは打って変わって、静まり返った座敷だった。

 灯りは低く落とされ、畳に影が濃く落ちている。

 紫が足を踏み入れると、そこにいたのは――歪んだ笑みを浮かべる男。

 久遠。

「はは……やっぱり変わんねぇな。ガキの頃と同じ顔してる」

 盃を弄びながら、久遠はにやついた。

「もう客は取ったのか?」

 紫は答えない。無言のまま、瞳を細めた。

「……そんな怖い顔すんなよ。俺がいろいろ“教えてやった”だろ?」

 わざと舌なめずりするような声。記憶の底を抉る響き。

 紫の喉がわずかに震えた。

「……お前か。全部……お前がやっているのか」

「今更だろ?」

 久遠は薄く笑い、肩をすくめた。

「お前だって夜霧の一族がどんな連中か、骨の髄までわかってるはずだ」

 紫は言葉を失い、ただ唇を噛み締めた。

「――お前も同じだ、紫」

 久遠の声はどこまでも愉快そうだ。

「結局のところ、あの血を引いてる時点で……俺と同じ側だ」

 沈黙。

 だが、紫の胸の奥にざわめきが広がる。

 久遠は盃を置き、さらに言葉を重ねた。

「まあ、言ってもよ……お前が楽しそーに暴れまわったせいで、もう生き残りなんざほとんどいねぇけどな」

 その一言に、紫の瞳が揺れる。

「……黙れ」

 低く、押し殺した声。

 久遠の目が愉快そうに細まる。

「なんだ? 珍しい顔するじゃねぇか」

 唇を歪め、嘲るように言い放つ。

「もっと笑えよ……あの時みたいにな。血まみれで暴れまわってた時みたいに」

 紫の手が柄に伸びる。

 次の瞬間、空気が爆ぜた。

 久遠の傀儡が床を蹴り、紫の刃と激突する。

 畳が裂け、灯りが吹き消え、闇と火花が交錯する。

 遊郭の奥座敷――静寂は一瞬で戦場へと変わった。


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