灯の奥に潜む影
遊郭の見世。
紫はわざと髪をかき上げ、白い項に埋め込まれた才能の石を灯りに晒していた。
きらめく石は噂好きの客たちの目を引き、たちまち口々に囁きが広がっていく。
「……あの娘、石を持ってるぞ」
「見ろ、顔立ちも並じゃない」
「新入りか? なんでこんな所に――」
紫は笑わない。ただ、盃を傾ける仕草だけを繰り返していた。
ざわめきの中、懐に忍ばせた小さな鉄の塊を指でなぞる。
***
「紫さん、これ」
光が差し出したのは手のひらに収まる小型の装置だった。
「……なんだ、これ」
「幻影装置です。……遊郭に入ったら、すぐにってわけじゃないでしょうけど、客とそういうことにもなるでしょう」
「……まぁ」
「その時に使ってください。紫さんの“あられもない幻影”を詰め込んでおきましたから」
光の発言に複雑な表情で装置を見下ろした。
同僚にそんなものを想像されるのは少しいたたまれない。
それと同時に任務をこなすことや仲間のことしか考えていなかったことに気が付く。
自分の身体の価値を、考えたこともなかった。
「……そんな面倒なこと、しなくても良かったのに。解析班、今忙しい時期だろ」
光はわずかに目を伏せ、低く呟いた。
「……さすがに可哀そうだったんで。焔羅さんが」
脳裏に、紫を睨みつける焔羅の怒り顔がよぎる。
紫は息を詰めた。
「……自分のことが考えられないのなら、せめて、相手のことを考えてくださいね」
光の声が妙に真っ直ぐに響いた。
***
現実に引き戻される。
目の前に控えの女が現れ、囁くように言った。
「――特別なお客様が、紫様にお会いしたいと。個室にて」
紫は盃を静かに置いた。
懐に忍ばせた小型の幻影装置を一度だけ指でなぞり、表情のない顔で立ち上がった。
***
木戸がわずかに開き、隙間から灯りと人影が漏れた。
運び屋が中に足を踏み入れようとした瞬間――。
「今だ」
キサラギの鋭い声。
兆が躍り出た。巨躯が影を裂き、正面の男をまとめて壁へ叩きつける。悲鳴と木箱が割れる音が重なった。
驚いた運び屋が振り返るが、その顎をキサラギの蹴りが正確に打ち抜いた。
すかさず別の男が短剣を抜き、アサヒへ飛びかかる。
アサヒは咄嗟に受け止めるが、腕に浅い切り傷が走った。
「……っ!」
痛みに顔をしかめながらも、片手を翳す。淡い光が瞬き、傷が閉じていく。
「兆、右だ!」
キサラギの指示。兆が反射的に振り向き、迫る敵を肩で弾き飛ばす。路地の壁が鈍く鳴った。
狭い裏路地は、あっという間に乱闘の場と化した。
呻き声、刃の閃き、兆の豪腕が薙ぎ倒す音、アサヒの光が仲間の隙を作り出す。
三人の動きは次第に噛み合い、数の不利を覆していく。
やがて、木箱のひとつが転がり、中から遊郭への荷札が現れた。
「……やっぱり繋がってるか」
キサラギが拾い上げる。息を切らしながらも、目は鋭い。
その時。
路地の奥から、靴音がゆっくりと近づいてきた。
顔をすっぽりと紙袋で覆った男が現れる。
不気味なほど落ち着いた歩調。沈んだ提灯の灯に照らされるその姿は、人とも影ともつかぬ異様さをまとっていた。
紙袋の穴から覗く視線が、三人を順に撫で、最後にアサヒで止まった。
一瞬、空気が揺れる。アサヒの胸に、理由のわからないざわめきが走った。
紙袋の奥で、くぐもった笑いが小さく漏れた気がした。
***
旧寺院は街外れにぽつんと佇んでいた。
ひび割れた石段、崩れかけた瓦。誰も寄りつかぬ廃墟に、今は別の息遣いが満ちている。
焔羅とレイは灯りを落とし、静かに扉を押し開けた。
鼻を突いたのは、鉄と薬の混ざった匂い。湿った木の香りに異物が混ざり、喉の奥をざらつかせる。
奥へ進むと、並べられた木箱の中から瓶や器具が顔を覗かせていた。
紫色に濁った液体が満ちた瓶。管や拘束具。
壁には見慣れぬ制御装置が据え付けられている。赤い灯が点滅し、低く唸るように稼働を続けていた。
「……これは」
レイの目が細められる。冷静な声に、緊張が混ざっていた。
焔羅は唾を吐き捨てるように呟いた。
「毒の原料か。……やなモンばっかだな」
その時だった。
視界の隅に、ゆらりと人影が揺れた。
崩れた柱の影、散乱する木箱の向こう。
次々に浮かび上がるのは、人の形をした“何か”だった。
肌は青白く、目は虚ろ。
首筋や腕に鉄具を嵌められ、管が体に突き刺さっている。
かすかに震え、呻き声を洩らしながら、闇の中からじりじりと歩み出してきた。
レイは即座に剣を抜き、焔羅も武器を手に取る。
だが、その数は一体、二体ではなかった。
灯りの届かぬ奥から――幾十もの影が、ゆっくりと彼らを取り囲んでいく。
***
女将に告げられ、紫は廊を進んでいった。
灯の揺れる格子窓を背に、艶やかに彩られた廊下はやけに静まり返っている。
「上客がお前を所望だ」――そう耳打ちされたのは、ほんの先ほどだった。
座敷の前に立ち、深く息を整える。
心臓は静かに打っている。だが胸の奥底では、何かざわりとした波が揺れていた。
指先で襖を押し開ける。
そこにいたのは――忘れようにも忘れられない顔だった。
薄暗い灯りの中、骨ばった顔に不自然な若さを貼りつけた男。
落ち窪んだ目元に妖しい光を宿し、口端をゆがめて笑っている。
「……久しぶりだな」
その声を聞いた瞬間、紫の瞳がわずかに揺れた。
幼き日の記憶――鉄の器具、冷たい管、焼けるような毒とともに植え付けられた声。
過去を裂いて響く声は、今も変わらず耳を抉った。
紫は唇を結び、静かに男を見据えた。




