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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十一 久遠の影
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影の囁き


 裏通りは、ひんやりとした静けさに包まれていた。

 灯りもまばらで、壁には煤けた行灯が掛けられているだけ。酔客の笑い声も届かず、足音だけが湿った石畳に響いた。

 調査隊の三人――キサラギ、兆、アサヒは影のようにその中を進む。

 事前情報から目をつけていた運び屋を、距離を保ちながら尾行していた。

 兆がわずかに身を前に乗り出す。

「……怪しいな」

 低い声が吐き出される。

 キサラギは手を上げ、小声で制した。

「まだだ。……合図を待て」

 アサヒは緊張を押し殺しながら剣の柄を握りしめる。掌にはうっすらと汗が滲んでいた。

 運び屋は路地を曲がり、煤けた木戸の前で立ち止まった。

 周囲を一度見回し、拳で扉を叩く。

 内側から、低くくぐもった声が返ってきた。

「……合言葉は?」

 運び屋が小さく囁く。声は風にかき消されそうに細い。

 直後、重い鉄錠が外れる鈍い音が路地に響いた。

 三人の背筋に、冷たい緊張が走る。

***

 花街の外れにある飲み屋は、表通りの華やかさとは正反対の空気に満ちていた。

 灯りは油の少ない行灯ばかりで薄暗く、床には酒がこぼれ、踏み締めるたびに靴底がぬるりとした。

 鼻を刺すのは酒精と汗と、女たちがまき散らす香の匂い――すべてがむせ返るように混ざり合っている。

 焔羅はカウンター席にどかりと腰を下ろし、無言のまま杯を煽った。

 苦みと辛みを舌の上で転がしながら、眉間の皺はほどけない。

 その隣で、レイは静かに杯を傾けつつ耳を澄ませていた。

 席のあちこちで交わされる酔客の噂話、女たちの囁き、酔った男が思わず漏らす商売の話――どれも断片的だが、レイの耳には必要な情報だけが拾われていく。

「……旧寺院に妙な荷が運ばれている」

 酔客が吐き捨てるように言った一言に、レイの指先がぴたりと止まった。

 焔羅も隣で顔を上げる。

 二人の視線が、酒の向こうで静かに交わった。

 旧寺院――。

 この街にとってはただの廃墟でしかないはずの場所に、何かが動いている。

 それが「妙な荷」である以上、彼らが探しているものと無関係であるはずがなかった。

 焔羅は杯を乱暴に置き、わずかに口端を吊り上げた。

 「……面倒な匂いしかしねぇな」

 レイは短く頷き、低く囁く。

 「確かめる価値はある」

 そう言って目を細めた時だった。

 二人の背後から、妙にねっとりとした声が落ちてきた。

「……お気に入りの女でも、いなくなったか?」

 振り向いた先に座っていたのは、年齢の判別がつかない男だった。

 黒く整えられた髪の根元には白い筋が覗き、落ち窪んだ目元は陰を帯びているのに、笑みを浮かべると一瞬だけ若々しい光を宿す。

 薬と酒の匂いに香を重ねたような吐息が漂い、焔羅の鼻を刺した。

 焔羅は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに口端を歪め、軽口で応じた。

「……そうなんだよ。ずっと通ってた女がいなくなってさ。寂しくってな」

 男は低く笑った。

「はは、夜の女なんざ急に飛ぶもんさ。あんまり入れ込むもんじゃない」

 焔羅は杯を弄びながら、わざとらしく肩をすくめる。

「そう思っててもよ……お気に入りを変えても、どんどんいなくなっちまうんだ」

 男の目が、にやりと細められる。

「……兄ちゃんは石つきの女が好みなんだな?」

 焔羅の手が止まった。わずかに目を細める。

「……」

「石つきの遊女は珍しい。夜の稼業にまで落ちるなんてな、たいていは周りに騙されて連れてこられたやつか……どうしようもない石を持った女ばかりだ」

 男の声には、妙な含みがあった。

 焔羅は沈黙を保ち、杯を傾ける。

 その視線は笑っているが、奥には冷えた色が滲む。

 男はさらに身を寄せ、低く囁くように言った。

「……だがな。石つきを従わせるのは格別だ。力あるやつが頭を下げる。あれは気持ちがいい」

 レイの眉がわずかに動いた。だが、次の瞬間には何事もなかったように表情を戻す。

 焔羅は表情を崩さず、薄い笑みを浮かべたままだった。

「……大層な趣味だな」

 その声は軽やかに響いたが、視線の奥には氷のような冷たさが宿っていた。

 男は盃を指先で弄びながら、淡々と口を開いた。

「石つきは生まれつき力がある。だからすぐ調子に乗る。だがな……意志を折ればいい。腕力なんざ関係ねぇ。殴る意思そのものを潰すんだ」

 焔羅は片眉を上げ、わざとらしく相槌を打った。

「……へぇ」

 男はくつくつと笑う。

「子供の頃から少しずつ、言い聞かせりゃいい。ただ痛めつけるだけじゃ駄目だ。人間らしさも教えるんだ。……そうすりゃ弱くなる。脆くなる。自己肯定感なんざ、簡単に壊せる」

 細い目が、異様な光を帯びる。

「育てるんだよ。『人間らしい』化け物をな」

 焔羅の笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。

 男はその揺らぎを見逃さず、口端を吊り上げる。

「……お前も、そういうの得意そうな顔をしているけどな」

 焔羅の胸に、過去の光景が閃く。

 館の片隅で、まだ幼い紫の世話を焼き、必死に“普通”でいさせようとした自分。

 無力感と苛立ちが、今さらのように蘇った。

 沈黙が落ちる。

 レイは冷静に焔羅の表情の揺らぎを捉えた。

「……もう行こう」

 短く言い、立ち上がる。

 焔羅は舌打ちをひとつ残し、渋々席を立った。

 二人の背を見送りながら、男はゆるく口角を上げる。

「……会えるのが楽しみだなぁ、紫」

 その囁きは、酒場のざわめきに紛れて誰の耳にも届かなかった。



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