影の囁き
裏通りは、ひんやりとした静けさに包まれていた。
灯りもまばらで、壁には煤けた行灯が掛けられているだけ。酔客の笑い声も届かず、足音だけが湿った石畳に響いた。
調査隊の三人――キサラギ、兆、アサヒは影のようにその中を進む。
事前情報から目をつけていた運び屋を、距離を保ちながら尾行していた。
兆がわずかに身を前に乗り出す。
「……怪しいな」
低い声が吐き出される。
キサラギは手を上げ、小声で制した。
「まだだ。……合図を待て」
アサヒは緊張を押し殺しながら剣の柄を握りしめる。掌にはうっすらと汗が滲んでいた。
運び屋は路地を曲がり、煤けた木戸の前で立ち止まった。
周囲を一度見回し、拳で扉を叩く。
内側から、低くくぐもった声が返ってきた。
「……合言葉は?」
運び屋が小さく囁く。声は風にかき消されそうに細い。
直後、重い鉄錠が外れる鈍い音が路地に響いた。
三人の背筋に、冷たい緊張が走る。
***
花街の外れにある飲み屋は、表通りの華やかさとは正反対の空気に満ちていた。
灯りは油の少ない行灯ばかりで薄暗く、床には酒がこぼれ、踏み締めるたびに靴底がぬるりとした。
鼻を刺すのは酒精と汗と、女たちがまき散らす香の匂い――すべてがむせ返るように混ざり合っている。
焔羅はカウンター席にどかりと腰を下ろし、無言のまま杯を煽った。
苦みと辛みを舌の上で転がしながら、眉間の皺はほどけない。
その隣で、レイは静かに杯を傾けつつ耳を澄ませていた。
席のあちこちで交わされる酔客の噂話、女たちの囁き、酔った男が思わず漏らす商売の話――どれも断片的だが、レイの耳には必要な情報だけが拾われていく。
「……旧寺院に妙な荷が運ばれている」
酔客が吐き捨てるように言った一言に、レイの指先がぴたりと止まった。
焔羅も隣で顔を上げる。
二人の視線が、酒の向こうで静かに交わった。
旧寺院――。
この街にとってはただの廃墟でしかないはずの場所に、何かが動いている。
それが「妙な荷」である以上、彼らが探しているものと無関係であるはずがなかった。
焔羅は杯を乱暴に置き、わずかに口端を吊り上げた。
「……面倒な匂いしかしねぇな」
レイは短く頷き、低く囁く。
「確かめる価値はある」
そう言って目を細めた時だった。
二人の背後から、妙にねっとりとした声が落ちてきた。
「……お気に入りの女でも、いなくなったか?」
振り向いた先に座っていたのは、年齢の判別がつかない男だった。
黒く整えられた髪の根元には白い筋が覗き、落ち窪んだ目元は陰を帯びているのに、笑みを浮かべると一瞬だけ若々しい光を宿す。
薬と酒の匂いに香を重ねたような吐息が漂い、焔羅の鼻を刺した。
焔羅は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに口端を歪め、軽口で応じた。
「……そうなんだよ。ずっと通ってた女がいなくなってさ。寂しくってな」
男は低く笑った。
「はは、夜の女なんざ急に飛ぶもんさ。あんまり入れ込むもんじゃない」
焔羅は杯を弄びながら、わざとらしく肩をすくめる。
「そう思っててもよ……お気に入りを変えても、どんどんいなくなっちまうんだ」
男の目が、にやりと細められる。
「……兄ちゃんは石つきの女が好みなんだな?」
焔羅の手が止まった。わずかに目を細める。
「……」
「石つきの遊女は珍しい。夜の稼業にまで落ちるなんてな、たいていは周りに騙されて連れてこられたやつか……どうしようもない石を持った女ばかりだ」
男の声には、妙な含みがあった。
焔羅は沈黙を保ち、杯を傾ける。
その視線は笑っているが、奥には冷えた色が滲む。
男はさらに身を寄せ、低く囁くように言った。
「……だがな。石つきを従わせるのは格別だ。力あるやつが頭を下げる。あれは気持ちがいい」
レイの眉がわずかに動いた。だが、次の瞬間には何事もなかったように表情を戻す。
焔羅は表情を崩さず、薄い笑みを浮かべたままだった。
「……大層な趣味だな」
その声は軽やかに響いたが、視線の奥には氷のような冷たさが宿っていた。
男は盃を指先で弄びながら、淡々と口を開いた。
「石つきは生まれつき力がある。だからすぐ調子に乗る。だがな……意志を折ればいい。腕力なんざ関係ねぇ。殴る意思そのものを潰すんだ」
焔羅は片眉を上げ、わざとらしく相槌を打った。
「……へぇ」
男はくつくつと笑う。
「子供の頃から少しずつ、言い聞かせりゃいい。ただ痛めつけるだけじゃ駄目だ。人間らしさも教えるんだ。……そうすりゃ弱くなる。脆くなる。自己肯定感なんざ、簡単に壊せる」
細い目が、異様な光を帯びる。
「育てるんだよ。『人間らしい』化け物をな」
焔羅の笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。
男はその揺らぎを見逃さず、口端を吊り上げる。
「……お前も、そういうの得意そうな顔をしているけどな」
焔羅の胸に、過去の光景が閃く。
館の片隅で、まだ幼い紫の世話を焼き、必死に“普通”でいさせようとした自分。
無力感と苛立ちが、今さらのように蘇った。
沈黙が落ちる。
レイは冷静に焔羅の表情の揺らぎを捉えた。
「……もう行こう」
短く言い、立ち上がる。
焔羅は舌打ちをひとつ残し、渋々席を立った。
二人の背を見送りながら、男はゆるく口角を上げる。
「……会えるのが楽しみだなぁ、紫」
その囁きは、酒場のざわめきに紛れて誰の耳にも届かなかった。




