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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十一 久遠の影

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毒の記憶


 幼い身体に、無骨な鉄の器具が取りつけられていた。

 首筋には毒を流し込む管、腕には動きを封じる帯具。

 冷たい液体が体内を這いまわり、喉を焼き、肺を締めつける。


 息が詰まる。

 視界が暗くなる。


 ――それでも紫は、声を上げなかった。


 壁際に座る男が、愉快そうに唇を歪める。

 紫の幼い日々を刻んだ残酷な声。


「……本当に大事なときは、誰も助けてなんかくれねぇんだよ」


 紫の顎を乱暴に掴む手が、必要以上に長く肌に触れてくる。

 ぞっとするほど近い距離で、酒と薬の混ざった吐息が顔を覆った。


 毒よりも気持ちの悪い感覚に、紫はわずかに身を強張らせる。

 それでも、声は上げない。涙も流さない。


 ただ無表情のまま、震える呼吸を整えようとする。


***

 花街の通りは、宵の帳に火を灯したような華やかさに包まれていた。

 香の煙が細く漂い、軒先からは三味の音と笑い声がこぼれる。

 朱塗りの提灯が揺れ、すれ違うたびに袖口から艶めいた香が漂った。


 人混みの中に、見知った横顔を見つけてケイが口角を上げる。


「……アサヒも意外とこういうとこ好きなんだな」


 アサヒはびくりと振り向き、途端に顔を真っ赤にする。


「ち、違うよ! ぼ、僕は任務で……っ。ケイこそ、なんでいるのさ」


「この辺で遊んでたら、ボーイにスカウトされてさ。そのまま」

 軽い調子で肩をすくめるケイ。


 そのとき、遠くの店先から怒鳴り声が上がった。

「財布がねぇ!!」


 ざわめきが広がる中、ケイは素知らぬ顔で鼻を鳴らす。


 アサヒは眉をひそめ、思わず口を開いた。

「……危ないよ、こんなところ一人で。物騒だし」


「俺は平気。アサヒみたいにぼーっとしてないからな」

 ケイは細めた目で一瞥し、くつくつと笑った。

「……お前こそ、気をつけろよー」


 そのまま人混みに紛れていく背中を見送りながら、アサヒは胸の奥に小さなざわめきを覚えた。

 ケイの胸元から、じゃらりと小銭の音が鳴る。


***


 白粉を薄くのせ、紅を差す。

 紫は鏡の中の自分を静かに見つめた。遊女の装いは、彼女の目にただの仮面に過ぎない。


 歩を進め、灯のにじむ廊へ入る。

 艶やかな笑い声が響くその奥で、紫はふと眉を寄せた。


 ――空気が重い。

 出された酒には、かすかに薬の匂いが混じっている。

 化粧台に並ぶ道具には、不自然に尖った成分の痕。

 吐息一つにも毒が散っているような、濃い淀み。


 その異様な気配を嗅ぎ分けながら、紫は盃を口に運ぶふりをした。


「……そういえば」

 上客のひとりが、何気なく洩らす。

 常連の遊女が姿を消した、と。しかもそいつは、ある男に近づいたのを最後に。


 紫の胸奥で、氷のような直感がひらめいた。


 わざと、髪をかき上げる。

 白い項に埋め込まれた才能の石が、艶やかな灯に照らされ、露わになる。


 その仕草に周囲の視線がちらと寄せられるのを感じながら、紫は微かに目を伏せた。

 罠を仕掛けるのは自分の方だ――そう思いながら。



***

 城下町の本部。報告用の帳面と地図が並ぶ会議室に、調査隊の面々が揃えられていた。

 窓の外に見える城下は、花街の明かりに照らされ、まるで繁栄の象徴のように輝いている。

 だがその裏では、石を持つ遊女が次々と姿を消していた。


 机上に広げられた報告書を指先で叩き、保安局の役人が言った。

「潜入調査と標的の特定だ。搬入ルートは複数の証言があり、どれが本命か断定できん。……片方を逃すわけにはいかない。両方押さえろ」

 キサラギは静かにうなずく。

「遊郭の内部はにも関係者がいる可能性が高い。……紫、これは夜霧の一族のお前にしかできん」


 彼女は一拍の沈黙のあと、低く答えた。


「……わかった」


 それだけで了承とした。


 キサラギが眉をひそめる。


「上層部の指名だ。拒否はできん」

 保安局の役人は冷ややかに言い放つ。

「そちらの女の一族は、もともと遊郭での密偵を担っていたはずだ。内部作法を知る者でなければ接触は不可能だろう」


 紫の目は揺れない。

 ただ短く息を吐いて、沈黙のまま背筋を伸ばした。


「……任務は任務だ」


 空気が重くなる。

 役人は続ける。


「他の者は花街の外縁を見張れ。搬入経路を洗い出し、不審な荷を押さえろ」


 こうして、花街を巡る調査隊の任務は始まった。


***


 花街外れの通り。夜風がひやりと吹き抜ける。

 焔羅は腕を組み、無言で歩いていた。顔にはあからさまな不機嫌さ。


 隣を歩くレイは、ちらりと視線を向けては口をつぐむ。

 この重たい空気に、余計な言葉は火種にしかならない――そう直感していた。


 酒場のざわめきが近づいても、二人の間に流れる沈黙は解けない。



***


 任務に出る前、焔羅は紫を呼び止めていた。


「なんで引き受けたわけ?」


 紫は背を向けたまま、淡々と答える。

「任務だし仕方ないだろ」


「は? 遊女の意味わかってる?」


「……お前には関係ないだろ」


 その一言に、焔羅の拳が壁を叩いた。乾いた音が部屋に響く。

「マジで言ってんのかよ」


 紫は一瞬だけ視線を伏せ、どこかバツの悪そうな顔をして踵を返す。


 残された焔羅の掌には、鈍い痛みとどうしようもない苛立ちだけが残った。



***

 焔羅の靴音は荒く、レイは小さく息を吐いた。


「……行こう。任務は任務だ」

 それだけ言って歩き出すレイに、焔羅は舌打ちを返した。


 二人は不穏な空気をまとったまま、夜の酒場へと足を踏み入れた。


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