毒の記憶
幼い身体に、無骨な鉄の器具が取りつけられていた。
首筋には毒を流し込む管、腕には動きを封じる帯具。
冷たい液体が体内を這いまわり、喉を焼き、肺を締めつける。
息が詰まる。
視界が暗くなる。
――それでも紫は、声を上げなかった。
壁際に座る男が、愉快そうに唇を歪める。
紫の幼い日々を刻んだ残酷な声。
「……本当に大事なときは、誰も助けてなんかくれねぇんだよ」
紫の顎を乱暴に掴む手が、必要以上に長く肌に触れてくる。
ぞっとするほど近い距離で、酒と薬の混ざった吐息が顔を覆った。
毒よりも気持ちの悪い感覚に、紫はわずかに身を強張らせる。
それでも、声は上げない。涙も流さない。
ただ無表情のまま、震える呼吸を整えようとする。
***
花街の通りは、宵の帳に火を灯したような華やかさに包まれていた。
香の煙が細く漂い、軒先からは三味の音と笑い声がこぼれる。
朱塗りの提灯が揺れ、すれ違うたびに袖口から艶めいた香が漂った。
人混みの中に、見知った横顔を見つけてケイが口角を上げる。
「……アサヒも意外とこういうとこ好きなんだな」
アサヒはびくりと振り向き、途端に顔を真っ赤にする。
「ち、違うよ! ぼ、僕は任務で……っ。ケイこそ、なんでいるのさ」
「この辺で遊んでたら、ボーイにスカウトされてさ。そのまま」
軽い調子で肩をすくめるケイ。
そのとき、遠くの店先から怒鳴り声が上がった。
「財布がねぇ!!」
ざわめきが広がる中、ケイは素知らぬ顔で鼻を鳴らす。
アサヒは眉をひそめ、思わず口を開いた。
「……危ないよ、こんなところ一人で。物騒だし」
「俺は平気。アサヒみたいにぼーっとしてないからな」
ケイは細めた目で一瞥し、くつくつと笑った。
「……お前こそ、気をつけろよー」
そのまま人混みに紛れていく背中を見送りながら、アサヒは胸の奥に小さなざわめきを覚えた。
ケイの胸元から、じゃらりと小銭の音が鳴る。
***
白粉を薄くのせ、紅を差す。
紫は鏡の中の自分を静かに見つめた。遊女の装いは、彼女の目にただの仮面に過ぎない。
歩を進め、灯のにじむ廊へ入る。
艶やかな笑い声が響くその奥で、紫はふと眉を寄せた。
――空気が重い。
出された酒には、かすかに薬の匂いが混じっている。
化粧台に並ぶ道具には、不自然に尖った成分の痕。
吐息一つにも毒が散っているような、濃い淀み。
その異様な気配を嗅ぎ分けながら、紫は盃を口に運ぶふりをした。
「……そういえば」
上客のひとりが、何気なく洩らす。
常連の遊女が姿を消した、と。しかもそいつは、ある男に近づいたのを最後に。
紫の胸奥で、氷のような直感がひらめいた。
わざと、髪をかき上げる。
白い項に埋め込まれた才能の石が、艶やかな灯に照らされ、露わになる。
その仕草に周囲の視線がちらと寄せられるのを感じながら、紫は微かに目を伏せた。
罠を仕掛けるのは自分の方だ――そう思いながら。
***
城下町の本部。報告用の帳面と地図が並ぶ会議室に、調査隊の面々が揃えられていた。
窓の外に見える城下は、花街の明かりに照らされ、まるで繁栄の象徴のように輝いている。
だがその裏では、石を持つ遊女が次々と姿を消していた。
机上に広げられた報告書を指先で叩き、保安局の役人が言った。
「潜入調査と標的の特定だ。搬入ルートは複数の証言があり、どれが本命か断定できん。……片方を逃すわけにはいかない。両方押さえろ」
キサラギは静かにうなずく。
「遊郭の内部はにも関係者がいる可能性が高い。……紫、これは夜霧の一族のお前にしかできん」
彼女は一拍の沈黙のあと、低く答えた。
「……わかった」
それだけで了承とした。
キサラギが眉をひそめる。
「上層部の指名だ。拒否はできん」
保安局の役人は冷ややかに言い放つ。
「そちらの女の一族は、もともと遊郭での密偵を担っていたはずだ。内部作法を知る者でなければ接触は不可能だろう」
紫の目は揺れない。
ただ短く息を吐いて、沈黙のまま背筋を伸ばした。
「……任務は任務だ」
空気が重くなる。
役人は続ける。
「他の者は花街の外縁を見張れ。搬入経路を洗い出し、不審な荷を押さえろ」
こうして、花街を巡る調査隊の任務は始まった。
***
花街外れの通り。夜風がひやりと吹き抜ける。
焔羅は腕を組み、無言で歩いていた。顔にはあからさまな不機嫌さ。
隣を歩くレイは、ちらりと視線を向けては口をつぐむ。
この重たい空気に、余計な言葉は火種にしかならない――そう直感していた。
酒場のざわめきが近づいても、二人の間に流れる沈黙は解けない。
***
任務に出る前、焔羅は紫を呼び止めていた。
「なんで引き受けたわけ?」
紫は背を向けたまま、淡々と答える。
「任務だし仕方ないだろ」
「は? 遊女の意味わかってる?」
「……お前には関係ないだろ」
その一言に、焔羅の拳が壁を叩いた。乾いた音が部屋に響く。
「マジで言ってんのかよ」
紫は一瞬だけ視線を伏せ、どこかバツの悪そうな顔をして踵を返す。
残された焔羅の掌には、鈍い痛みとどうしようもない苛立ちだけが残った。
***
焔羅の靴音は荒く、レイは小さく息を吐いた。
「……行こう。任務は任務だ」
それだけ言って歩き出すレイに、焔羅は舌打ちを返した。
二人は不穏な空気をまとったまま、夜の酒場へと足を踏み入れた。




