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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第二章 彫刻家の孤独
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ヨシュア

 護衛任務が始まって三日目の夜だった。

 ヨシュアは、石の光が届かない裏路地でひとり、酒をあおっていた。

 この場所には、あの人は決して来ない。

 だからこそ、来たかった。

 こんなにも俗に塗れた自分の姿を、彼女に見せるわけにはいかなかった。

 助手になって二年。人生は大きく変わった。

 建築設計の仕事を辞め、彼女のそばで作品を支える日々は、まるで自分自身もその芸術の一部になったかのような錯覚すら抱かせた。

 だが、国際展の話が決まってから、彼女は明らかに自分を避けるようになった。

 夜中、理由も告げずに出ていくようになり、気づけば護衛と称するよく知らない少年たちを傍に置いて、作業を進めるようになっていた。

「私が……どれだけ、先生に尽くしてきたと思ってる……」

 薄暗い飲み屋の隅で、ヨシュアは空いた酒瓶を揺らしながら、誰にも届かないはずの言葉を吐き出した。

「かわいそうに。本当に、それはひどい話だね」

 返ってきたのは、思いがけない声だった。

 驚いて顔を上げると、カウンターの影にひとりの人物が立っていた。

 フードの奥に沈んだ顔、その奥でわずかに光る、赤い双眸だけが見えた。

 その光は、まるで人の心の奥底を、笑って見透かしているかのようだった。

「君は、彼女に対して全てのものをみているんだね。女も、自分も、夢も、母性も、父性も、救いも、子供も」

 そいつの声は妙に澄んでいて、まるで旧い懺悔室の中に響く神父の声のようだった。

 ヨシュアは笑う。

「何を言って……」

「でも、君は彼女のすべてを知ってると思ってる」

「違う、俺は――」

「彼女が“君だけに見せてくれた”一面が、本当の姿だったと、まだ信じてる」

 返す言葉が出なかった。

 フードの奥で、赤い光がゆらりと揺れる。

「自分のすべてを捧げたのに、応えてくれない……それは、痛いよね」

 ヨシュアは、はっとして立ち上がろうとする。

だが脚は動かず、言葉だけがこぼれる。

「……誰だ、お前……」

「君の“理解者”だよ」

 フードの奥に隠れた顔が一瞬あらわになった。

 その顔はヨシュアが一番求めていた焦がれる相手に見えた。頭の奥に熱のような圧が走る。

「捨てられたのは、君のせいじゃない。あの人が、自分しか見ていないだけだ。君の才能も、献身も、ぜんぶ見落としてる。……だったら、君を本当に必要とする世界に行こう」

 ヨシュアの手の中に、いつのまにか小さな薬のカプセルが握られていた。

「ほんの少しでいい。ただ“境界”をまたいでみるだけさ。

君ならできる。君は、選ばれた側の人間だ」

 夜風が吹く。

 その言葉が本当に誰のものだったのか、もはや定かではない。

 ただ、その声が“優しかった”という記憶だけが、深く心に残っていた。

***

 紫の不安とは裏腹に、この数日、街はひどく穏やかだった。

 異変の兆しもなく、夜の通りにも異様な気配はない。

 敵側が警戒して身を潜めているのか、それとも――嵐の前の静けさか。

 彫刻の仕上げは昨晩ようやく終わった。

 あとは国際展示の前夜祭を待つばかりだ。

 紫は外の様子を窺いながら、ひと息ついた。

「焔羅、レイ」

 部屋の奥で準備をしていた二人に声をかける。

「前夜祭の間、お前たちは町に出ろ。広場の周辺と裏通り、特に“石の光が届かない場所”を重点的に見てこい」

 焔羅が軽く手を挙げて答える。

「りょうかいでーす」

 レイも黙って頷くが、どこか気にかかるように周囲を見回した。

「……ヨシュアさんは?」

 紫は一瞬だけ言葉を飲み込んだあと、短く答えた。

「見かけてない」

 レイが少しだけ眉をひそめる。

 焔羅は軽く口笛を吹いた。

「大好きな先生様が作った彫刻残してどこ行っちまったんだろうな」

 紫はその言葉には答えず、ただ視線を落とす。

「気を抜くな。静かすぎるときほど、何かが起こる」

 彼女の声は、妙に遠く感じられた。


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