影を踏まないために
本作には、以下のようなセンシティブな描写が含まれます:
・自傷・自殺の描写
これらのテーマは読者の心的安全を脅かす可能性があります。ご自身の体調・状況に応じて、無理のない範囲でご覧ください。
その日、ノアは予定より早く帰宅した。
夕方のアトリエには、やわらかな西日が差し込んでいた。
そこには、キャンバスに向かうニアの小さな背中。
椅子に浅く腰をかけ、眉間をわずかに寄せている。
筆先はためらいなく走り、周囲の物音など一切耳に入っていない。
――まるで、世界にひとりきりでいるようだった。
その姿に、ノアは息を飲んだ。
絵と自分以外のすべてが溶け落ちた空間。
周囲の声も、時間の流れさえも遮断する集中。
それはあまりにも、自分の若いころに似ていた。
似すぎていて――笑うことも、言葉をかけることもできなかった。
ノアはしばらく立ち尽くす。
かつての自分は、こんなまっすぐな瞳をしていただろうか。
いや――今の自分は、そんな瞳を失ってしまったのではないか。
胸の奥に、冷たい感覚が広がっていく。
嬉しさではない。
誇らしさでもない。
それは、はっきりとした恐怖だった。
――自分が傍にいれば、この子の未来を潰してしまうかもしれない。
ニアが描く絵の純粋さを、今の自分が汚してしまうのではないか。
この子がいつか、自分と同じ場所まで堕ちてしまうのではないか。
ノアは、言葉を飲み込み、静かにその場を離れた。
まるで、自分の存在そのものが罪であるかのように。
***
夜風が、焦げたような金属の匂いをまだわずかに運んでいた。
調査隊の車両はもう去り、街道には二人の足音だけが続いている。
ノノは、手に持った資料袋を軽く振りながら歩いていた。
先ほどの現場の緊張感は抜けているはずなのに、その横顔は相変わらず涼やかで、余計な言葉を挟まない。
「……今日は、ごめんね」
ニアが申し訳なさそうに、言った。ノノは少し不思議そうな顔を見せる。
「なんでニアが謝るの」
その言葉にニアはスカートの裾を握りしめ言った。
「……僕の家、少し怖いでしょ?」
事件にかかわりのある家族には調査隊として報告の義務がある。だとしてもニアは申し訳なく感じていた。
ほんの少しだけ目を伏せるニアの顔を覗き込むノノ。
「どちらかというと、私が助けられたことが多かったよ?謝るなら私の方」
ノノに視線がいかないように舞踏会で絵を描いたり、閉じ込められた時に助けに来てくれたニアを思い出す。
「……そんなこと、ないよ」
覗き込むノノの視線に照れるニア。
「……ニアってさ、結構大人しそうだったり、気にしいだけど」
見た目は女の子のニアにノノは少し考え込みながら言った。
「いざって時カッコいいよね」
その一言が、胸の奥に小さく響いた。息が浅くなる。目を逸らさなければ、きっと顔が熱くなるのがバレてしまう。
街灯の光が、ノノの髪をかすかに透かす。
その影を横目で見ながら、ニアは胸の奥でざわめくものを抑えられなかった。
危険な現場に立っているのに、不思議と心が静まる。
石の共鳴よりも、ずっと近いところで響くものがある。
「帰ろうか」
くるりと背を向けるノノ。追いかけるように隣に並んだ。
ニアはただ前を向いて歩いた。
その隣に、一定の距離を保ちながら歩くノノの足音を聞きながら。
街の灯が遠ざかり、夜の匂いだけが濃くなっていく。
けれど、心の中に灯った小さな光は――その夜、最後まで消えることはなかった。
***
樹海は、夜の底に沈んでいた。
葉擦れの音さえ、遠くに引いていく。
足元の土は湿り、冷たく、わずかに靴底に貼りついた。
ノアは、枝の高さを測り、縄を結びながら、ふいに息を止めた。
胸の奥で、ひとつの声が蘇る。
『……現実より、それが“ほんとう”に思えるから』
あの日、アトリエので、ためらいもなくそう言ったニア。
その瞬間、ノアは理解した。
ただの血縁ではない。
魂の核で、同じ景色を見ている。
作家としての“芯”が、初めて触れ合ったのだと。
……そして同時に、背筋を冷たいものが走った。
自分のそばにいてはいけない。
このままでは、ニアもいつか宮廷の目に留まる。
飾り物として呼び出され、形を削られ、色を塗り替えられる。
自分がそうされたように。
あの白く塗り潰された肖像画のように――。
(私の影で歪ませてはいけない。あの子は、私と違う場所へ行かなければ)
縄を枝に掛ける手が、わずかに震えた。
それは恐怖ではなかった。
祈りを、形にするための覚悟だった。
闇の中で、ノアはひとり呟く。
「……あの子が、私と違う場所へ行けますように」
結び目を確かめる。
「……そして、願わくば、“君”がこの意味に気づかないままでありますように」
枝が静かに軋む。
夜風が一度だけ頬を撫で、
それきり、音はすべて樹海に飲み込まれた。




