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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十章 空と額縁
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影を踏まないために

本作には、以下のようなセンシティブな描写が含まれます:


・自傷・自殺の描写



これらのテーマは読者の心的安全を脅かす可能性があります。ご自身の体調・状況に応じて、無理のない範囲でご覧ください。

 その日、ノアは予定より早く帰宅した。

 夕方のアトリエには、やわらかな西日が差し込んでいた。

 そこには、キャンバスに向かうニアの小さな背中。

 椅子に浅く腰をかけ、眉間をわずかに寄せている。

 筆先はためらいなく走り、周囲の物音など一切耳に入っていない。

 ――まるで、世界にひとりきりでいるようだった。

 その姿に、ノアは息を飲んだ。

 絵と自分以外のすべてが溶け落ちた空間。

 周囲の声も、時間の流れさえも遮断する集中。

 それはあまりにも、自分の若いころに似ていた。

 似すぎていて――笑うことも、言葉をかけることもできなかった。

 ノアはしばらく立ち尽くす。

 かつての自分は、こんなまっすぐな瞳をしていただろうか。

 いや――今の自分は、そんな瞳を失ってしまったのではないか。

 胸の奥に、冷たい感覚が広がっていく。

 嬉しさではない。

 誇らしさでもない。

 それは、はっきりとした恐怖だった。

 ――自分が傍にいれば、この子の未来を潰してしまうかもしれない。

 ニアが描く絵の純粋さを、今の自分が汚してしまうのではないか。

 この子がいつか、自分と同じ場所まで堕ちてしまうのではないか。

 ノアは、言葉を飲み込み、静かにその場を離れた。

 まるで、自分の存在そのものが罪であるかのように。


***

 夜風が、焦げたような金属の匂いをまだわずかに運んでいた。

 調査隊の車両はもう去り、街道には二人の足音だけが続いている。

 ノノは、手に持った資料袋を軽く振りながら歩いていた。

 先ほどの現場の緊張感は抜けているはずなのに、その横顔は相変わらず涼やかで、余計な言葉を挟まない。

「……今日は、ごめんね」

 ニアが申し訳なさそうに、言った。ノノは少し不思議そうな顔を見せる。

「なんでニアが謝るの」

 その言葉にニアはスカートの裾を握りしめ言った。

「……僕の家、少し怖いでしょ?」

 事件にかかわりのある家族には調査隊として報告の義務がある。だとしてもニアは申し訳なく感じていた。

 ほんの少しだけ目を伏せるニアの顔を覗き込むノノ。

「どちらかというと、私が助けられたことが多かったよ?謝るなら私の方」

 ノノに視線がいかないように舞踏会で絵を描いたり、閉じ込められた時に助けに来てくれたニアを思い出す。

「……そんなこと、ないよ」

 覗き込むノノの視線に照れるニア。

「……ニアってさ、結構大人しそうだったり、気にしいだけど」

 見た目は女の子のニアにノノは少し考え込みながら言った。

「いざって時カッコいいよね」

 その一言が、胸の奥に小さく響いた。息が浅くなる。目を逸らさなければ、きっと顔が熱くなるのがバレてしまう。

 街灯の光が、ノノの髪をかすかに透かす。

 その影を横目で見ながら、ニアは胸の奥でざわめくものを抑えられなかった。

 危険な現場に立っているのに、不思議と心が静まる。

 石の共鳴よりも、ずっと近いところで響くものがある。

「帰ろうか」

 くるりと背を向けるノノ。追いかけるように隣に並んだ。

 ニアはただ前を向いて歩いた。

 その隣に、一定の距離を保ちながら歩くノノの足音を聞きながら。

 街の灯が遠ざかり、夜の匂いだけが濃くなっていく。

 けれど、心の中に灯った小さな光は――その夜、最後まで消えることはなかった。


***

 樹海は、夜の底に沈んでいた。

 葉擦れの音さえ、遠くに引いていく。

 足元の土は湿り、冷たく、わずかに靴底に貼りついた。

 ノアは、枝の高さを測り、縄を結びながら、ふいに息を止めた。

 胸の奥で、ひとつの声が蘇る。

 『……現実より、それが“ほんとう”に思えるから』

 あの日、アトリエので、ためらいもなくそう言ったニア。

 その瞬間、ノアは理解した。

 ただの血縁ではない。

 魂の核で、同じ景色を見ている。

 作家としての“芯”が、初めて触れ合ったのだと。

 ……そして同時に、背筋を冷たいものが走った。

 自分のそばにいてはいけない。

 このままでは、ニアもいつか宮廷の目に留まる。

 飾り物として呼び出され、形を削られ、色を塗り替えられる。

 自分がそうされたように。

 あの白く塗り潰された肖像画のように――。

(私の影で歪ませてはいけない。あの子は、私と違う場所へ行かなければ)

 縄を枝に掛ける手が、わずかに震えた。

 それは恐怖ではなかった。

 祈りを、形にするための覚悟だった。

 闇の中で、ノアはひとり呟く。

「……あの子が、私と違う場所へ行けますように」

 結び目を確かめる。


「……そして、願わくば、“君”がこの意味に気づかないままでありますように」

 枝が静かに軋む。

 夜風が一度だけ頬を撫で、

 それきり、音はすべて樹海に飲み込まれた。


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