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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十章 空と額縁
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白に沈む

 ニアが家を出て行った時と同じように 夕暮れの光が廊下を細長く照らしている。

 あの日より、幾分か成長したニアが澪の前に立っていた。

「……今回の件で、調査隊が大掛かりに入ることになった。父さんの絵も、分析のために持ち帰る。……あと、偽物の“石”や関連資料も、すべて押収される。一応、報告」

 澪は食卓の端に置かれたカップを、ただ指先でなぞっている。

 そして、ノアにもメアにも似た息子をただ見つめていた。

 短い沈黙ののち、ニアは踵を返した。

 玄関の戸を開け、外の冷たい空気を胸に吸い込む。

 そのとき、背後から澪の声が落ちてきた。

「……あなた達は……弱くなんかなかったわ」

 立ち止まりかけた足を、ニアはそのまま前に踏み出す。

 返す言葉は、どこにも見つからなかった。

 扉が静かに閉まる音だけが、家の中に残った。

 その残響の中、澪の胸の奥で、あの日の光景が浮かび上がる。

 ――同じ夕暮れの廊下。

 ノアの背中が、ゆっくりと暗がりに溶けていった夜。

 呼び止めることもできず、ただ指先だけが震えていた感触。

 胸を刺す冷たい感覚が、いまも変わらずそこにあった。


***

 ノアが宮廷画家になって、まだ間もない頃だった。

 その夜、ノアは王太子の肖像画制作のために宮廷へ呼ばれていた。

 予定よりもずっと早く着いてしまい、案内役の侍従が来るまで、広い回廊でひとり待つことになった。

 ふと、視線が吸い寄せられる。

 絢爛な柱廊の並びの奥――ほとんど人の気配がない古い廊下。

 壁にかけられた古びたタペストリーは、色も褪せ、ほこりを被っている。

 そこだけ空気が冷え、長い間、扉一枚さえ動かされていないような、湿った沈黙が漂っていた。

 足が勝手にそちらへ向かっていた。

 廊下の突き当たりで、ノアは壁の装飾に不自然な線を見つける。

 漆喰の継ぎ目が、わずかに指先に触れる感触を返してきた。

 そっと押すと、隠すように設けられていた板がわずかに沈む。

 低く鈍い音を響かせながら、装飾の奥から鉄の扉が現れた。

 重く、古びて、ところどころ錆びついている。

 鍵は……かかっていなかった。

 取っ手を引くと、長年眠っていた蝶番が悲鳴のような音を上げる。

 わずかに開いた隙間から、湿った空気が押し寄せてきた。

 ――薬品の匂い。

 それに混じって、かすかに甘く、しかし鼻を刺すような腐臭。

 顔を刺すその匂いに、無意識に息を浅くする。

 中は暗く、空気は動かない。

 けれど、この先に“何か”がある――そう確信できる冷たさがあった。

 重たい扉が完全に開くと、ひやりとした空気が頬をなぞった。

 そこは――保管庫のようだった。だが、絵画も彫像もない。

 薄暗がりの中、並んでいるのは古びたガラス槽。

 液体はすでに濁り、緑褐色の膜が表面を覆い、あちこちに細かな亀裂が走っている。

 ひとつ、またひとつ――槽の中を覗き込むたび、ノアの背筋がこわばっていく。

 沈んでいるのは、骨と皮ばかりになった残骸。

 皮膚の一部には、宝石のような“石”の痕跡が、鈍く濁った光を帯びて残っていた。

 それらは本来あるべき心臓や額ではなく、肩、顎、脊椎――ありえない位置に埋め込まれている。

 周囲の骨は、石を押し返すように膨張し、奇妙な歪みを見せていた。

 足元の床は長年の湿気で沈み、壁際には、革張りの記録帳が積まれている。

 表紙を開くと、古いインクの匂いとともに、淡々とした文字列が目に飛び込んできた。

 ――第3例:精神崩壊。

 ――第9例:石の拒絶反応により死亡。

 文字は乾いた事務的な筆致で、まるで天気の記録でも残すかのように並んでいる。

 しかし、その筆跡の端々には、見覚えのある家紋が押されていた。

 先々代の宮廷貴族。

 権力を握り、退屈を嫌い、珍しいものに飢えていた一族。

 ノアは、その場に立ち尽くした。

 もともと、宮廷に幻想など抱いてはいなかった。

 肖像画も祝宴の装飾も、彼らにとって芸術ではなく消費物として扱われていたことは知っていた。

 けれど――いま見ているこれは、それ以上だった。

 石を持たぬ者の、好奇心。

 権力者の、退屈。

 その果てに積み上げられた犠牲。

 胸の奥に、静かで深い絶望が広がっていく。

 まるで、自分たちが必死に紡いだ“言葉”そのものが、ここで無惨に踏み潰されているように感じた。

 筆も、色も、届くはずのものも――すべて、この冷たい槽の底で沈黙している。


***

 ノアはゆっくりと扉を閉めた。

 重たい蝶番のきしみが、長く尾を引く。

 金属の縁がぴたりと壁に収まっても、あの腐臭は消えなかった。

 服に、髪に、そして肺の奥にまで染みつき、呼吸するたびに蘇る。

 廊下を戻る途中、足音がひとつ近づいた。

 案内役の青年――まだ二十代半ばほどの、細身の使用人だった。

 彼はノアを見ると、少し照れくさそうに笑みを浮かべた。

「……ノア様の作品、拝見したことがあります。あの“椅子の海”……忘れられません」

 真っ直ぐな声音だった。お世辞の匂いはない。

 だが、ノアの胸には何も響かなかった。

 それどころか、その言葉は妙に遠く、透明な膜の向こうから聞こえてくるようだった。

 自分がさっき目にした光景を、彼は知らない。

 知らないまま、絵を見て、ただ“すごい”と言う。

 ――その距離こそが、今は堪らなく虚しかった。

 その夜。

 宮廷の客間に戻ったノアは、描きかけの肖像画を前に座っていた。

 金糸の襟飾りも、整った口元も、すでに下絵はできあがっている。

 筆を握る手は、しかし動かなかった。

 やがて、絵具皿の白をすくい取る。

 細やかな彩色ではなく、ざらり、と音を立てるほど厚く塗る。

 肌も、衣も、背景も、すべてが白に飲まれていく。

 雪のような色が、人物を覆い隠し、ただの“塊”に変えていった。

 それはまるで――今日見たガラス槽の中、濁った液体に沈む影のようだった。




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