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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十章 空と額縁
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誰もいない部屋

 澪とノアのあいだには、少しずつ、言葉のすれ違いが増えていった。

 言い争うというよりも――互いに、どうしても譲れないものを抱えたまま、ただ、静かに、噛み合わなくなっていった。

 ある静かな夜だった。

 雨上がりの石畳が、かすかに光っていた。

 ノアは玄関にコートを掛け、扉に手をかける。

「……こんな遅くに、どこに行くの?」

 背後から、澪の声がした。ノアは動きを止めたまま、答えた。

「……少し、夜風にあたりに行こうと思って」

 澪は彼の前髪からのぞく消えそうな笑顔に不安感に襲われた。

「……お願い。しばらく“描く”のを休んで。あなたが、心配なのよ」

 長い沈黙。

 やがて、ノアは振り返らずに呟いた。

「澪……君に出会って、世界に“色”がついたようだったよ……まるで、自分が“理解された”ような気がして、本当に嬉しかった。救われたと思った」

 ほんの少し空を仰ぐように顔を上げるノア。しかし澪を見ることはない。

「だから……期待してしまった。錯覚してしまったんだ――自分が“普通”だと。どんな人にも、届くものを描けるんじゃないかって」

 ノアの声が震えていた。

 けれど泣いてはいなかった。もう、感情の波も越えていたのかもしれない。

「澪……どうしようもない“孤独感”が消えないんだ」

 扉が開く音がした。

 澪は、何も言えなかった。

 足を動かすこともできなかった。

 ノアの背中が、静かに闇へと溶けていった。

 その数日後。

 近くの森の奥、小さなあずまやの梁に――ノアの亡骸が見つかった。

 風が吹いていた。

 いつも絵筆を持っていた手が、まるで今も何かを描こうとしているかのように、指先を少しだけ曲げていた。

 彼の胸には、折りたたまれた紙切れがひとつ残されていた。

 それは、何も描かれていない――空の額縁のスケッチだった。


***

 彼のいないアトリエが、空っぽになってから――もう数年が経った。

 澪は、町の図書室で司書として働きながら、家のことをこなしていた。

 夕方。

 アトリエからかすかに聞こえてくる鉛筆の音が、蛇口から流れる水音にまぎれていく。

 澪は、洗い物をしながら、その音を聞かないふりをする。

 ……あるいは、聞こえないふりをしていたのかもしれない。


 そのアトリエでは、ニアが今日も絵を描いている。

 まるで、ぽっかりと空いた“彼の不在”を埋めるかのように。

 ニアは――あまりにも彼に似ていた。

 消えてしまいそうな儚い笑顔。

 中性的で曖昧な顔立ち。

 言葉に詰まりがちなくせに、人の気持ちばかりがよく見える子。

 そして、どこか頼りなく見えて――けれど芯では、決して折れない。

 その“似ている”という事実は、時に、澪の胸を締めつける。

 震える手をごまかすように、蛇口の水を少し強めた。

「ただいまー!」

 リビングに、メアの明るい声が響く。

 玄関の戸が閉まる音とともに、アトリエのドアも開く。

 ニアが顔をのぞかせ、無邪気に笑った。

「おかえり、お姉ちゃん!」

 笑顔で駆け寄り、メアに抱きつくニア。

 服の袖がずれ、胸元から“石”がちらりと覗く。

 メアのくるぶしにあるそれも、同じように光った。

 ふたつの石が、並んでかすかに輝く。

 静かに、確かに。

 蛇口の水音が止まる。

 皿の上で止まった澪の手が、小さく震えていた。

 その瞳が、わずかに揺れる。

 ――どうしよう。

 もしこの子たちが、いつか“彼”と同じ場所へ向かってしまったら。

 その不安は、ただの杞憂であってほしかった。

 だけど――

 その願いをあざ笑うかのように、数年後。

 メアが、父と同じように。

 静かに、この世界から姿を消した。

***

 日は落ち、家の中に灯る照明だけが、床にやわらかな影を落としていた。

 ニアはいきなりキサラギと名乗るロングコートの少年を連れてきた。

 澪は、食卓の向こうで座るニアの顔をじっと見つめていた。

 その表情は、どこか決意に満ちていて、もう“引き返すつもりがない”と告げていた。

「……調査隊に入る?」

 低く、静かな声だった。

 ニアの後ろで、キサラギは黙って聞いている。

 ――決めるのはお前だ。そう言いたげな眼差しで、ニアの背を見守っていた。

「……うん。調査隊に入って、実地にも行く予定だよ。僕には“予測”の力があるみたいだし」

 ニアの言葉に、澪の指先がわずかに震えた。

「どうして? 絵を描きたいだけなら、他にも方法があるでしょう。あなたの技術なら、宮廷画家にだってなれるはずよ」

 声は抑えていたが、熱が滲んでいた。

「……決めたんだ。“背負う”って」

 ニアはゆっくりと目を伏せる。けれど言葉尻は鋭く、揺らがなかった。

「姉さんの“石”を探す。何があったのか、ちゃんとこの目で確かめたい。誰かに説明されるより、自分で“感じたい”。そう思った」

 澪は、地を這うような毒の孕んだ言葉を紡ぐ。

「……背負って、何になるのよ。何も変わらないわ。あなたは、気が弱い子じゃない。全部、抱えたら潰れるわ……きっと、つらくなるわよ」

 ニアは一つ、深く息を吸った。

「そうだろうね。僕は、人一倍劣等感が強い。心も、弱い方だと思う。すぐに人の気持ちを察してしまって、考えすぎて、自分を責めて……」

 そこで、ニアははっきりと澪を見た。

 その目は、いつかの“彼”に似ていた。

 弱く見えて、けれど決して折れない、真っすぐな光。

「それでも――僕は、“つらい道”を選ぶ。痛くても、考え続ける。劣等感も、消えないかもしれない。でも、受け止める。……適当な折り合いのつけ方なんて、したくない」

 澪は、ゾッとするような怖さを覚えた。

 ノアも、ニアも、結局――彼女の言葉には耳を傾けなかった。

 誰よりも想い、心配して、愛しているのに。

 それでも彼らは、そんな気持ちに重きを置かない。

「……そんなの……意味がないわ。なぜそこまで、あなたたちは……どうして、そんなに頑ななの」

 澪の声が震える一方で、ニアの瞳はまったく揺れない。

「……決めたんだ」

 その一言が、静かに沈んだ空気を切った。

 ――ガタン。

 机の上のカップが倒れた。思わず、手が動いていた。

「……わからない……! わからないのよ! あなたたちが……わからない……!」

 視線を彷徨わせ、拳を握りしめる。

 石を持つ者たちは、どうしてこうも自分を傷つける。

 こちらがどんなに「大切」だと伝えても、なぜ、届かないのか。

「……ねえ、ニア……」

 すがるように、澪は息子の胸にしがみついた。

 涙は出ない。ただ、声だけがかすれていた。

「なぜ、つらい方を選ぶの……? なぜそんなにも、求めるの……?

 あなたたちは……何に、そんなに苦しんでいるの……?」

 世間なんてどうだっていい。

 ただ――生きていてほしい。

 生きていてくれさえすれば、それでよかった。

 ニアは、しばらくその体に手を回さなかった。

 けれど、やがてそっと腕を添えて、静かに言う。

「……僕は、家を出ていくよ。母さんが僕を許せないのも、わかってる。でも――ひとりにはしない。 母さんも、父さんも、姉さんも……残してはいかない。 僕が、全部背負うよ。たとえそれが“生き地獄”でも」

 澪は、何も返せなかった。

 何も返したくなかった。

 そんなものを、望んだことなどなかった。

 救世主にも、女神にも、創造主にも――なってほしくなかった。

 ただ、生きていてほしかった。

「……行こう」

 ニアの声が、短く空気を切る。

 キサラギが歩み寄り、ニアを伴って玄関へ向かう。

 その背を、澪はなす術もなく見送った。

 静かな、静かな部屋の中。

 ぽつりと、澪の声が落ちる。

「……なんで……あなたたちは、そんなに……傲慢なの……」

 返ってくる声は、どこにもなかった。

 澪はひとり、その静けさの中で――もう誰もいない扉を見つめていた。


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