誰もいない部屋
澪とノアのあいだには、少しずつ、言葉のすれ違いが増えていった。
言い争うというよりも――互いに、どうしても譲れないものを抱えたまま、ただ、静かに、噛み合わなくなっていった。
ある静かな夜だった。
雨上がりの石畳が、かすかに光っていた。
ノアは玄関にコートを掛け、扉に手をかける。
「……こんな遅くに、どこに行くの?」
背後から、澪の声がした。ノアは動きを止めたまま、答えた。
「……少し、夜風にあたりに行こうと思って」
澪は彼の前髪からのぞく消えそうな笑顔に不安感に襲われた。
「……お願い。しばらく“描く”のを休んで。あなたが、心配なのよ」
長い沈黙。
やがて、ノアは振り返らずに呟いた。
「澪……君に出会って、世界に“色”がついたようだったよ……まるで、自分が“理解された”ような気がして、本当に嬉しかった。救われたと思った」
ほんの少し空を仰ぐように顔を上げるノア。しかし澪を見ることはない。
「だから……期待してしまった。錯覚してしまったんだ――自分が“普通”だと。どんな人にも、届くものを描けるんじゃないかって」
ノアの声が震えていた。
けれど泣いてはいなかった。もう、感情の波も越えていたのかもしれない。
「澪……どうしようもない“孤独感”が消えないんだ」
扉が開く音がした。
澪は、何も言えなかった。
足を動かすこともできなかった。
ノアの背中が、静かに闇へと溶けていった。
その数日後。
近くの森の奥、小さなあずまやの梁に――ノアの亡骸が見つかった。
風が吹いていた。
いつも絵筆を持っていた手が、まるで今も何かを描こうとしているかのように、指先を少しだけ曲げていた。
彼の胸には、折りたたまれた紙切れがひとつ残されていた。
それは、何も描かれていない――空の額縁のスケッチだった。
***
彼のいないアトリエが、空っぽになってから――もう数年が経った。
澪は、町の図書室で司書として働きながら、家のことをこなしていた。
夕方。
アトリエからかすかに聞こえてくる鉛筆の音が、蛇口から流れる水音にまぎれていく。
澪は、洗い物をしながら、その音を聞かないふりをする。
……あるいは、聞こえないふりをしていたのかもしれない。
そのアトリエでは、ニアが今日も絵を描いている。
まるで、ぽっかりと空いた“彼の不在”を埋めるかのように。
ニアは――あまりにも彼に似ていた。
消えてしまいそうな儚い笑顔。
中性的で曖昧な顔立ち。
言葉に詰まりがちなくせに、人の気持ちばかりがよく見える子。
そして、どこか頼りなく見えて――けれど芯では、決して折れない。
その“似ている”という事実は、時に、澪の胸を締めつける。
震える手をごまかすように、蛇口の水を少し強めた。
「ただいまー!」
リビングに、メアの明るい声が響く。
玄関の戸が閉まる音とともに、アトリエのドアも開く。
ニアが顔をのぞかせ、無邪気に笑った。
「おかえり、お姉ちゃん!」
笑顔で駆け寄り、メアに抱きつくニア。
服の袖がずれ、胸元から“石”がちらりと覗く。
メアのくるぶしにあるそれも、同じように光った。
ふたつの石が、並んでかすかに輝く。
静かに、確かに。
蛇口の水音が止まる。
皿の上で止まった澪の手が、小さく震えていた。
その瞳が、わずかに揺れる。
――どうしよう。
もしこの子たちが、いつか“彼”と同じ場所へ向かってしまったら。
その不安は、ただの杞憂であってほしかった。
だけど――
その願いをあざ笑うかのように、数年後。
メアが、父と同じように。
静かに、この世界から姿を消した。
***
日は落ち、家の中に灯る照明だけが、床にやわらかな影を落としていた。
ニアはいきなりキサラギと名乗るロングコートの少年を連れてきた。
澪は、食卓の向こうで座るニアの顔をじっと見つめていた。
その表情は、どこか決意に満ちていて、もう“引き返すつもりがない”と告げていた。
「……調査隊に入る?」
低く、静かな声だった。
ニアの後ろで、キサラギは黙って聞いている。
――決めるのはお前だ。そう言いたげな眼差しで、ニアの背を見守っていた。
「……うん。調査隊に入って、実地にも行く予定だよ。僕には“予測”の力があるみたいだし」
ニアの言葉に、澪の指先がわずかに震えた。
「どうして? 絵を描きたいだけなら、他にも方法があるでしょう。あなたの技術なら、宮廷画家にだってなれるはずよ」
声は抑えていたが、熱が滲んでいた。
「……決めたんだ。“背負う”って」
ニアはゆっくりと目を伏せる。けれど言葉尻は鋭く、揺らがなかった。
「姉さんの“石”を探す。何があったのか、ちゃんとこの目で確かめたい。誰かに説明されるより、自分で“感じたい”。そう思った」
澪は、地を這うような毒の孕んだ言葉を紡ぐ。
「……背負って、何になるのよ。何も変わらないわ。あなたは、気が弱い子じゃない。全部、抱えたら潰れるわ……きっと、つらくなるわよ」
ニアは一つ、深く息を吸った。
「そうだろうね。僕は、人一倍劣等感が強い。心も、弱い方だと思う。すぐに人の気持ちを察してしまって、考えすぎて、自分を責めて……」
そこで、ニアははっきりと澪を見た。
その目は、いつかの“彼”に似ていた。
弱く見えて、けれど決して折れない、真っすぐな光。
「それでも――僕は、“つらい道”を選ぶ。痛くても、考え続ける。劣等感も、消えないかもしれない。でも、受け止める。……適当な折り合いのつけ方なんて、したくない」
澪は、ゾッとするような怖さを覚えた。
ノアも、ニアも、結局――彼女の言葉には耳を傾けなかった。
誰よりも想い、心配して、愛しているのに。
それでも彼らは、そんな気持ちに重きを置かない。
「……そんなの……意味がないわ。なぜそこまで、あなたたちは……どうして、そんなに頑ななの」
澪の声が震える一方で、ニアの瞳はまったく揺れない。
「……決めたんだ」
その一言が、静かに沈んだ空気を切った。
――ガタン。
机の上のカップが倒れた。思わず、手が動いていた。
「……わからない……! わからないのよ! あなたたちが……わからない……!」
視線を彷徨わせ、拳を握りしめる。
石を持つ者たちは、どうしてこうも自分を傷つける。
こちらがどんなに「大切」だと伝えても、なぜ、届かないのか。
「……ねえ、ニア……」
すがるように、澪は息子の胸にしがみついた。
涙は出ない。ただ、声だけがかすれていた。
「なぜ、つらい方を選ぶの……? なぜそんなにも、求めるの……?
あなたたちは……何に、そんなに苦しんでいるの……?」
世間なんてどうだっていい。
ただ――生きていてほしい。
生きていてくれさえすれば、それでよかった。
ニアは、しばらくその体に手を回さなかった。
けれど、やがてそっと腕を添えて、静かに言う。
「……僕は、家を出ていくよ。母さんが僕を許せないのも、わかってる。でも――ひとりにはしない。 母さんも、父さんも、姉さんも……残してはいかない。 僕が、全部背負うよ。たとえそれが“生き地獄”でも」
澪は、何も返せなかった。
何も返したくなかった。
そんなものを、望んだことなどなかった。
救世主にも、女神にも、創造主にも――なってほしくなかった。
ただ、生きていてほしかった。
「……行こう」
ニアの声が、短く空気を切る。
キサラギが歩み寄り、ニアを伴って玄関へ向かう。
その背を、澪はなす術もなく見送った。
静かな、静かな部屋の中。
ぽつりと、澪の声が落ちる。
「……なんで……あなたたちは、そんなに……傲慢なの……」
返ってくる声は、どこにもなかった。
澪はひとり、その静けさの中で――もう誰もいない扉を見つめていた。




