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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十章 空と額縁
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詩と絵のあいだに

 雨上がりの午後だった。

 濡れた石畳の上を、柔らかな風が通り抜けていく。

 地方の小さな町。通りの一角では、ささやかな古書市が開かれていた。

 澪は、本が好きだった。

 活字の並びを眺めると安心するからだ。よくわからない感情をわかりやすく言葉として導いてくれる。

 そんな言葉の匂いに触れたかった。それだけだった。

 ──ふと。

 少し離れた端のテントで、一人の青年が本を読んでいた。

 髪は少し伸びすぎていて、表情もよく見えない。

 だがその指先は、とても静かだった。

 まるで音をたてない鳥のように、詩集のページをそっとめくっていた。

 澪は、なぜだか目を離せなかった。

 青年の膝にあったのは、よくある詩集。

 けれど、澪が近づいて覗き込んだその瞬間――

 余白に、スケッチが描かれていた。

 ひとつは、空に浮かぶ家。

 もうひとつは、逆さまに伸びる木。

 言葉ではなかった。けれど、確かに“何か”が描かれていた。

「……これは、あなたの詩?」

 思わず声に出していた。いつもなら、見ず知らずの、ましてや男の人なんかに声をかけるだなんてしないのにその時はなぜか、声を上げていた。

 青年は、少しだけ顔を上げる。

 黒髪の奥から見えたのは、驚くほどまっすぐな目だった。

「詩ではないけれど……。でも、意味は近いのかもしれません」

 その声は、どこか遠くから来たようだった。

「……まるで詩みたいでした」

「あなたは、詩を読むんですか」

「読んで、忘れます。覚えていたら苦しいから」

 青年は、ふっと笑った。

 笑った、というより「空気がほどけた」ように感じた。

「――その感覚、わかります」

 そうして、名前を名乗り合う前から、ふたりは話し始めていた。


***

 それからというもの、二人はよく会うようになった。

 特別な約束はしなかったけれど、週末になると自然に同じ場所にいた。

 ノアは絵を描き、澪はその傍らで静かに本を読む。

 会話は少なかったが、静けさが苦ではなかった。

 むしろ、そこにあるのは信頼に近いものだった。

 澪が初めて知ったのは、ノアが絵を描く人だということ。

 そして、いくつかのギャラリーにすでに評価されていること。

 でもノアは、そのことをほとんど話さなかった。

 ある日――

 澪は読みかけの本の一節に、思わず声を漏らした。

「……すごいの。この登場人物、最初は何も持ってなかったのに、少しずつ自分で歩き始めるの。

 怖くて震えてたのに、大切な人のために立ち上がって――もう、読んでて、息が苦しくなるくらいで……」

 その声は、無意識に高まっていた。

 けれどすぐに、我に返って、視線を落とした。

「……ごめんなさい、興奮しちゃって。所詮は、作り物のお話よね」

 するとノアが、筆を止めた。

 静かな声で、ぽつりと言う。

「……物語は確かに“作り物”だけど、それは“感情の見本”なんだと思う。

 僕たちの中にあるものを、誰かが“見えるようにしてくれた”もの。

 本質は、“何を感じたか”だよ。

 その感情は、フィクションじゃない。本物だ。僕らのなかに確かにある」

 澪は、驚いたようにノアを見つめた。

「……そう、ね。そうかもしれない」

 ノアは、スケッチブックの余白にさらりと線を引く。

 その目はどこか遠くを見ていた。

「物語の中でさ、いじめに立ち向かう人とか、勇者が世界を救う話って、よくあるよね。

 みんな感動して、“かっこいい”って言う。

 なのに現実に戻ると、いじめをする側に回ったり、見て見ぬふりをしたりする……

 感動した気持ちはどこにいったんだろうって、いつも思う」

 静かに、絵筆を握る手に力がこもる。

 それは、怒りではなかった。

 ただ――伝えたいという、切実な想いだった。

「僕は……言葉で説得できなくても、

 絵で、“伝えられるもの”があると信じたい。

 みんなの中に、きっとどこかで通じる部分があるはずなんだ。

 石があってもなくても、“人間”には……」

 その言葉に、澪はわずかに目を伏せた。

「……でも、私は……大切な人には、勇者になってほしくないわ」

 ノアが顔を上げる。

「だって、大切な人が――見ず知らずの誰かのために傷つくのは……いや。

 ……近くのものや、自分のことを大事にしてくれたら、それでいいのにって……そう思ってしまう」

 言い終えたあと、自分でもその言葉に戸惑ったようだった。

 けれどノアは、否定しなかった。

 ほんの少し微笑みながら、ただ頷いた。

「うん。そう思ってくれる人がいるって、きっとすごく幸せなことだ」

 そのとき、澪はまだ知らなかった。

 ノアの胸に、消せない渇きのようなものがあったことを。

 どんなに理解されても、なお「もっと深く届く場所があるはずだ」と願っていたことを。


***

 二人が一緒になってから、穏やかな日々だった。

 小さなアトリエの朝。絵の具の匂い。子どもたちの笑い声。

 姉のメアは、聡く踊ることが好きで、弟のニアはときおり夢の話をしては、澪のノートの余白に絵を描いた。

 才能の石がふたりに宿っていると知ったときも――澪は、不思議と怖くなかった。

 むしろ、彼らの中に流れる「父と同じ気配」が、どこか誇らしかった。

 けれど、それは長くは続かなかった。

 ノアが、宮廷画家に任命された。

 王族の肖像画。祝典の装飾。

 表舞台に立つたび、名声は高まっていった。

 それなのに――ノアは、次第に筆を止めるようになった。

 夜になると、アトリエの隅で一人、白紙のキャンバスを睨みつけていた。

 絵を描いていても、視線はどこか虚ろで、魂だけが遠くを見ていた。

「……何が、そんなに辛いの?」

 ある夜、澪がそっと尋ねると、ノアはまるで壁に語るように言った。

「……僕が描きたかったのは、こんな絵じゃない。貴族の注文で、贅沢に飾られる肖像画。

 その奥で、ただの装飾になっていく。まるで、僕の魂が贅沢品に加工されていくような感覚なんだ……」

 言葉を聞きながら、澪は静かに息を吸った。

「……なら、描かなくてもいいじゃない。私は、あなたが“画家じゃなくても”好きよ。誰かに理解されなくてもいい。……私は、あなたのままでいい」

 ノアは、その言葉に目を伏せた。

「だめなんだ」

 乾いた声だった。

 その声に、澪は初めて、はっきりとした“隔たり”を感じた。

「僕は、描くことでしか“僕”でいられない。絵を描かない僕は……僕じゃないんだ」

 澪は、言葉を失った。

 言葉が好きだった。

 誰かが紡いだ物語の中に、自分の感情を見つけてきた。

 名前をつけることで、自分の心を理解してきた。

 けれど――このときのノアの心に、どんな名前をつけたらよかっただろう。

「……万人に理解されなくても、いいじゃない。

 あなたの絵を、本当にわかる人が一人でもいれば、それで」

 ノアは静かに首を振った。

「違うんだ。そうじゃない。“誰にでも通じる何か”が、人間にはあるはずなんだ。それを、僕は描きたい。たとえ石がなくても、言葉がなくても、どんな立場でも、届く“共通する何か”が――きっと、あると信じてる」

 その目は、ひどくまっすぐで、澪は思わず目をそらした。

 “私は、あなたのすべてを理解できない”。

 その事実が、初めて胸に重くのしかかった瞬間だった。


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