空の額縁
木漏れ日が、アトリエの天窓から差し込んでいた。
カーテンは風に揺れ、薄い埃の匂いと乾いた絵の具の匂いが混ざる。
ニアは、小さな椅子に座って、画用紙に鉛筆を走らせていた。
その横では、父・ノアがキャンバスに向かっている。音もなく、静かに筆を滑らせる。
ふと、筆が止まる。
ノアは少しだけ顔を下げ、ニアの描いている絵を眺める。
「――ニア」
「うん?」
「ニアは絵を描くのは好きかい?」
唐突な問いに、ニアは少しだけ首をかしげた。
「……好きかはわかんない、ただ描かなきゃって思う時がある。夢をみた後とかに」
素直な返答に、ノアは微笑んだ。
「…夢の中で見たものって、たとえ絵に描こうとしても、全部は描けない。でも……それを“モチーフ”にすると、絵がどこか生き始める気がするんだよね」
「うん……でも、夢って変なのが多いよ」
「そう。だからこそ、いいんだよ。変だから、意味がある。目で見た現実よりも、心で見た夢の方が、ずっと“描く価値がある”って思うこともある」
ニアは、父の描いた絵に目を向けた。
空に浮かぶ椅子。水面に沈む時計。逆さになった木。
現実離れした絵。だけど不思議と、怖くはなかった。
「……おとうさんも?」
「そうだね、僕もニアも“シュールリアリスト”だね。――現実と、非現実の、境界線を溶かす」
「シュール……」
ニアは小さく呟いたあと、問いかけるように聞いた。
「……お父さんの夢の中の“モチーフ”は、なに?」
ノアは、少しだけ間を置いてから答えた。
「“気配”かな」
「気配?」
「うん。誰かがそこに“いたような気がする”とか、“見えないけど、いるような感じ”。……そういうのって、目には見えないけど、ちゃんと“描ける”と思うんだ」
ノアはゆっくり立ち上がり、棚の上に置いてあったスケッチブックを手に取る。
ページをめくると、そこには一枚の絵――“空の額縁”だけが描かれていた。
「例えば…夢の中でね、これを見たんだ。壁にかけられた額縁。でも、中は何も描かれてないのに、誰かがこう言うんだ。『これは君の絵だよ』って」
「……描いてないのに?」
「そう。何も描いてないからこそ、“僕の絵”なんだって。そのとき、不思議と納得してしまった」
沈黙が落ちた。
遠くで風が吹いて、アトリエの古い壁を軋ませた。
「……ニア……君は、なぜ“夢”を描くの?」
ニアは数秒の沈黙の後、静かに答えた。
「現実より、それが“ほんとう”に思えるから」
幼い恥ずかしがり屋の少年には見えない鋭くまっすぐな目。
その言葉に、ノアはふっと笑い、手で自分の顔を隠した。
嬉しさがあふれてしまうのを、見せたくなかったのかもしれない。
「君は、きっと君自身の“額縁”を見つけられる。その中に、何を描くかは……君だけが決めていい」
誰にも理解されない画家の、初めての共感者のようにノアは感じた。
「……どうか、誰の声にも惑わされずに、君の絵を描き続けて」
ニアは言葉に詰まり、小さくうなずくだけだった。
父の背中。その筆の動き。その静けさ――すべてが夢のようで、でも確かにそこにあった。
ニアは父の手元を見つめる。
すると、父の現実離れしたモチーフたちの輪郭が滲み始める。そして、それは渦を巻きあたりを覆いつくす。
真っ暗な闇の中に浮かんだのは、“ノノ”だった。
歪む空間で怖いはずなのに表情すら出さず、立ち尽くす彼女の姿。
火花のような光。波打つ床。金属のうねり。
――危ない。
ニアの胸元の石が、熱を帯びる。
ああ、これは――夢だ。
***
ニアは、胸元の石の熱さに目を覚ました。
何か情報が得られないかとニアは夢で探索をしていたのだ。
汗ばんだ手で、すぐさま通信機を掴んだ。
「ノノ、聞こえる?」
返事はない。
だが、石が脈打っている。夢と同じ気配が、まだ残っている。
「ノノ、今どこ?」
焦りではなく、確信に近い直感。
何かが起きている――いや、“起こってしまう”。
「待ってて。今行く」
ニアは跳ね起き、コートを羽織りながら部屋を飛び出した。
まるで、自分の石が――“導いている”かのように。
***
扉を開けた瞬間、熱と歪みが押し寄せた。
視界が一瞬揺れ、空間が軋むような音が耳を打つ。
中にいたのは、ノノ――膝をつき、苦しげに呼吸を殺そうとしていた。
「ノノ!」
叫びながら、ニアは駆け込む。
胸元の“石”が、熱く脈打つのを感じた。
まるで、暴走している“何か”と共鳴しているかのように。
見たことのない力が、空気を狂わせている。
少女の形をした個体が、液体の中からふわりと浮かび、無意識のまま空間に異常を走らせていた。
足元の床が波打ち、火花が飛ぶ。
ノノのそばへ走ろうとするたび、何かに押し返されるような気配。
それでも、ニアは立ち止まらなかった。
胸の内で、何かが確かに“呼応”していた。
――石が、知っている。
この場にある“力”と、“夢”の続きを。
ニアは一枚の布にくるまれたキャンバスを取り出した。
父が遺した――あの最後の絵だ。
けれど今、絵の中に描かれた赤い鳥が、かすかに光を帯び始める。
尾羽の鍵盤模様が、ゆっくりと形を変えていく。
黒と白のリズムが崩れ、その羽根の中に――何かが、浮かび上がった。
ニアの心に、強烈な既視感が走る。
(これ……は……)
そう、昔。父と語ったあの午後。
夢の話。額縁の話。
壁に飾られた、中身のない空の額縁。
鳥の羽のなかに、緻密に――けれど確かに。
誰にも気づかれず描かれた、“父の夢”の中のモチーフ。
そして、その絵から放たれる淡い光が、少女の暴走する石へと触れていく。
空間の軋みが、すこしずつ和らいでいく。
火花が散っていた床が静まり、金属のうねりが収まっていく。
少女の動きが止まった。
光に包まれながら、彼女はまるで眠るように、静かに液体の中へと沈みはじめる。
共鳴の波が収束し、ようやく部屋に“沈黙”が戻った。
まるで――夢から、目が覚めるかのように。




