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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十章 空と額縁
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空の額縁

 木漏れ日が、アトリエの天窓から差し込んでいた。

 カーテンは風に揺れ、薄い埃の匂いと乾いた絵の具の匂いが混ざる。

 ニアは、小さな椅子に座って、画用紙に鉛筆を走らせていた。

 その横では、父・ノアがキャンバスに向かっている。音もなく、静かに筆を滑らせる。

 ふと、筆が止まる。

 ノアは少しだけ顔を下げ、ニアの描いている絵を眺める。

「――ニア」

「うん?」

「ニアは絵を描くのは好きかい?」

 唐突な問いに、ニアは少しだけ首をかしげた。

「……好きかはわかんない、ただ描かなきゃって思う時がある。夢をみた後とかに」

 素直な返答に、ノアは微笑んだ。

「…夢の中で見たものって、たとえ絵に描こうとしても、全部は描けない。でも……それを“モチーフ”にすると、絵がどこか生き始める気がするんだよね」

「うん……でも、夢って変なのが多いよ」

「そう。だからこそ、いいんだよ。変だから、意味がある。目で見た現実よりも、心で見た夢の方が、ずっと“描く価値がある”って思うこともある」

 ニアは、父の描いた絵に目を向けた。

 空に浮かぶ椅子。水面に沈む時計。逆さになった木。

 現実離れした絵。だけど不思議と、怖くはなかった。

「……おとうさんも?」

「そうだね、僕もニアも“シュールリアリスト”だね。――現実と、非現実の、境界線を溶かす」

「シュール……」

 ニアは小さく呟いたあと、問いかけるように聞いた。

「……お父さんの夢の中の“モチーフ”は、なに?」

 ノアは、少しだけ間を置いてから答えた。

「“気配”かな」

「気配?」

「うん。誰かがそこに“いたような気がする”とか、“見えないけど、いるような感じ”。……そういうのって、目には見えないけど、ちゃんと“描ける”と思うんだ」

 ノアはゆっくり立ち上がり、棚の上に置いてあったスケッチブックを手に取る。

 ページをめくると、そこには一枚の絵――“空の額縁”だけが描かれていた。

「例えば…夢の中でね、これを見たんだ。壁にかけられた額縁。でも、中は何も描かれてないのに、誰かがこう言うんだ。『これは君の絵だよ』って」

「……描いてないのに?」

「そう。何も描いてないからこそ、“僕の絵”なんだって。そのとき、不思議と納得してしまった」

 沈黙が落ちた。

 遠くで風が吹いて、アトリエの古い壁を軋ませた。

「……ニア……君は、なぜ“夢”を描くの?」

 ニアは数秒の沈黙の後、静かに答えた。

「現実より、それが“ほんとう”に思えるから」

 幼い恥ずかしがり屋の少年には見えない鋭くまっすぐな目。

 その言葉に、ノアはふっと笑い、手で自分の顔を隠した。

 嬉しさがあふれてしまうのを、見せたくなかったのかもしれない。

「君は、きっと君自身の“額縁”を見つけられる。その中に、何を描くかは……君だけが決めていい」

 誰にも理解されない画家の、初めての共感者のようにノアは感じた。

「……どうか、誰の声にも惑わされずに、君の絵を描き続けて」

 ニアは言葉に詰まり、小さくうなずくだけだった。

 父の背中。その筆の動き。その静けさ――すべてが夢のようで、でも確かにそこにあった。

 ニアは父の手元を見つめる。

 すると、父の現実離れしたモチーフたちの輪郭が滲み始める。そして、それは渦を巻きあたりを覆いつくす。

 真っ暗な闇の中に浮かんだのは、“ノノ”だった。

 歪む空間で怖いはずなのに表情すら出さず、立ち尽くす彼女の姿。

 火花のような光。波打つ床。金属のうねり。

 ――危ない。

 ニアの胸元の石が、熱を帯びる。 

 ああ、これは――夢だ。


***

 ニアは、胸元の石の熱さに目を覚ました。

 何か情報が得られないかとニアは夢で探索をしていたのだ。

 汗ばんだ手で、すぐさま通信機を掴んだ。

「ノノ、聞こえる?」

 返事はない。

 だが、石が脈打っている。夢と同じ気配が、まだ残っている。

「ノノ、今どこ?」

 焦りではなく、確信に近い直感。

 何かが起きている――いや、“起こってしまう”。

「待ってて。今行く」

 ニアは跳ね起き、コートを羽織りながら部屋を飛び出した。

 まるで、自分の石が――“導いている”かのように。

***

 扉を開けた瞬間、熱と歪みが押し寄せた。

 視界が一瞬揺れ、空間が軋むような音が耳を打つ。

 中にいたのは、ノノ――膝をつき、苦しげに呼吸を殺そうとしていた。

「ノノ!」

 叫びながら、ニアは駆け込む。

 胸元の“石”が、熱く脈打つのを感じた。

 まるで、暴走している“何か”と共鳴しているかのように。

 見たことのない力が、空気を狂わせている。

 少女の形をした個体が、液体の中からふわりと浮かび、無意識のまま空間に異常を走らせていた。

 足元の床が波打ち、火花が飛ぶ。

 ノノのそばへ走ろうとするたび、何かに押し返されるような気配。

 それでも、ニアは立ち止まらなかった。

 胸の内で、何かが確かに“呼応”していた。

 ――石が、知っている。

 この場にある“力”と、“夢”の続きを。

 ニアは一枚の布にくるまれたキャンバスを取り出した。

 父が遺した――あの最後の絵だ。

 けれど今、絵の中に描かれた赤い鳥が、かすかに光を帯び始める。

 尾羽の鍵盤模様が、ゆっくりと形を変えていく。

 黒と白のリズムが崩れ、その羽根の中に――何かが、浮かび上がった。

 ニアの心に、強烈な既視感が走る。

(これ……は……)

 そう、昔。父と語ったあの午後。

 夢の話。額縁の話。

 壁に飾られた、中身のない空の額縁。

 鳥の羽のなかに、緻密に――けれど確かに。

 誰にも気づかれず描かれた、“父の夢”の中のモチーフ。

 そして、その絵から放たれる淡い光が、少女の暴走する石へと触れていく。

 空間の軋みが、すこしずつ和らいでいく。

 火花が散っていた床が静まり、金属のうねりが収まっていく。

 少女の動きが止まった。

 光に包まれながら、彼女はまるで眠るように、静かに液体の中へと沈みはじめる。

 共鳴の波が収束し、ようやく部屋に“沈黙”が戻った。

 まるで――夢から、目が覚めるかのように。


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