開かれた扉の先
男は椅子に縛られ、ぐったりと項垂れている。
ノノはその横で、小さく吐息を漏らした。
「……すり替えてたのは本当だ。でも、それ以上は知らない」
男の言葉に、疑念が消えない。
ノノはふと、男の目線の動きに気づいた。
話している間、彼は一度も“部屋の左側”を見なかった。
正確には――“見ないようにしていた”。
視線の先。壁際の、古びた木製パネル。
装飾は剥がれかけ、そこだけ妙に空気の流れが違って見える。
「……何かあるね」
ノノはそっと手を伸ばす。指先で縁をなぞると、風が抜けた。
すぐ傍の燭台を押し込むと、低い音を立てて壁がずれ、鉄製の隠し扉が現れた。
ロックは文字式。四つのスロット。
「C、E、A、G……」
父の絵に描かれていた“鳥の羽”。
思い出すのに時間はかからなかった。
ノノはひとつずつ、スロットを“C・A・G・E”と合わせていく。
カチリ――
鍵が外れる音と共に、扉がゆっくりと開いた。
鉄と薬品と、何かの腐臭が混じった冷気が、顔にかかる。
ノノは一度だけ深呼吸し、その奥へと足を踏み入れた。
薄暗く沈んだ室内。
ガラス槽に満ちる青白い液体。
棚には“標本”が並んでいた。
一つ――幼い子どもの体が、静かに浮かんでいる。
目を閉じた顔。口元が、どこか笑っているように見えた。
それが“表情”なのか、死後の硬直なのかは判別できない。
別の槽では、皮膚の下に埋められた“才能の石”が青白く光っていた。
だが、それは心臓ではなかった。
腕の中、顎の裏、肩甲骨の内側――
不自然な場所に埋め込まれた石は、皮膚を押し上げ、身体に拒絶されていた。
最奥の槽には、頭部だけが異様に肥大した標本。
脳が膨張し、顔の形すら崩れている。
重さに沈み、器の底に漂う泡ひとつない沈黙。
――ノノは、言葉を失っていた。
喉が詰まり、手足の感覚すら遠のく。
どこかで機械音のような低い振動が響いていた。
扉の奥へと続く通路は、ひときわ暗く、湿り気を帯びた空気がじっとりと肌に貼りついた。
ノノは慎重に足を進める。薬品と金属と、どこか甘ったるい匂いが混じり合っている。ひどく静かだった。
さきほどの標本室と構造は似ている。だが、雰囲気がまるで違った。
――静かすぎる。
壁際のケースには、やはり歪んだ身体の「実験体」たちが横たわっていた。すでに生命の痕跡を失って久しい。
だが、その一番奥に置かれた槽――
そこだけが、違った。
どこか、異様に冷たい。
ノノは、まるで何かに惹かれるように、足を向けた。
透明なガラスの向こう。
液体に沈むのは、やせ細った少女のような影。
だがその身体は部分的に焼け焦げており、皮膚の一部が赤く透けていた。
骨ばった胸の奥――そこに、ゆらりと“石”が浮かぶ。
――才能の石。
ノノが息を呑んだ、その瞬間だった。
ぱちり、と。
音もなく、目が開いた。
虚ろな瞳が、ガラス越しにノノを射抜く。
同時に、石が淡く光を放った。
鋭い振動音が、低く空間を揺らす。
床が、波打ったように見えた。熱気が立ちのぼる。
次の瞬間、少女の身体がぬるりと液体の中で動き出す。
まだ完全に目覚めきっていない。けれど、“力”だけが先に起動し始めていた。
ガラスの表面に、バチッと火花のようなものが走る。
ノノは数歩、後ずさる。
槽の周囲の金属が軋み始めた。
ガラスの縁に触れていた床材が、ゆっくりと溶けている。
空間が歪んでいる。重力なのか、熱なのか、視界なのか――見たことのない「異常」。
その中心にあるのは、眠りかけた目と、光る石。
ノノはとっさに腰の装備に手をかける。
けれど、“それ”の存在そのものが周囲の空気を狂わせ、音を削ぎ、逃げ道さえもぼやかしていくようだった。
(……まずい)
目の前にあるのは、失敗作ではない。
未完成のまま、“起動した”――災厄そのものだった。
ギィン――。
金属音が鋭く響いたかと思うと、背後で自動扉が軋みを上げ、音を立てて閉じた。
ノノは反射的に振り返る。
だが遅かった。
非常ロックがかかるような音とともに、唯一の出口が遮断される。
(……閉じ込められた?)
思考がよぎるよりも早く、空気の濃度が変わった。
酸素が薄くなったのか、胸の奥が熱をもってざらつく。
喉が焼けるように苦しい。
けれど、ノノは咄嗟に息を整えようとはしなかった。
いつもの癖。
感情を見せず、呼吸を抑え――冷静でいようとする。
その一瞬の“間”が、対応を遅らせた。
少女のような“個体”が、ふわりと液体から抜けるように浮かび上がる。
明確な意志などない。ただ“反応”だけがそこにある。
暴走する石が放つ波動。周囲の空間が揺れ、火花が走る。
ノノの足元、床がねじれるように隆起した。
バランスを崩し、膝をついた瞬間――
「ノノ!!」
扉の向こうから、叫びが響いた。
次の瞬間、ロックが外れたように扉が開き、光とともに誰かが飛び込んでくる。
ニアだった。
彼の胸元で、青白く光る石が脈打っていた。
まるで“反応”するように。
ニアの石が、暴走個体の石と共鳴を起こす。
空間の歪みがピンと張り詰めた瞬間――暴走の波が逆流する。
ふいに、ニアが手元から何かを取り出した。
――あの絵だ。
父・ノアが遺した、最後の作品。
その一部、窓辺に描かれた「赤い鳥」が、淡く光を放ち始める。
ニアが思わず目を見開いた。
赤い鳥の尾羽――そこにあった鍵盤模様が、ゆっくりと変化する。
白と黒の配列が次第に崩れ、羽根の中に――“何かの形”が浮かび上がる。
(これ……は……)
語るように描かれ、誰にも気づかれなかったもの。
それが、いま暴走の中心に向かって、静かに干渉を始めていた。
ノノは、暴走個体の動きが止まったことに気づく。
赤い鳥の光が、“彼女”を包んでいた。
目を閉じたままの少女の身体が、ほんの少しだけ、穏やかに沈みはじめる。
共鳴の波が、静かに収束していった。




